呉座 VS 井沢:歴史学者だけが歴史家なのか?

八幡 和郎

週刊ポスト(3月15日号)誌上での井沢元彦氏の公開質問状に対して、呉座先生が今週発売の29日号で大反論。素晴らしい出来である。果たして週刊ポストが呉座氏の反論をきちんと扱うか心配していたが、表紙にも「作家vs学者の歴史大論争 応仁の乱 呉座勇一 反論寄稿 井沢元彦氏の『公開質問状』に答えよう」と出ているのは、呉座氏の反論の質の高さによる。

このあたり、呉座氏が単なる学者でなく、46万部の大ベストセラー作家でもある実力の証であろう。

ぜひ、井沢氏も負けずに次号の表紙に見出しが掲載されるような再反論を書いて欲しい。前回の公開質問状は、表紙にも新聞広告にもまったく紹介されず編集部から軽く扱われた。それがこうして大論争らしくなっているのは、呉座氏が真摯に高い質の回答をされたがゆえであろう。

ただ、呉座氏の反論がすべての点において素晴らしいかといえば、疑問もある。やはり、学者としての自分の土俵の論理であって、一般読者に説得力があるかどうかといえば、やや不満足である。

実は、この前、私が「呉座氏の学者としてのプライドは素晴らしいが」のなかで、「私は歴史学者をそれほどひどく罵倒しているわけでもないので、百田・井沢・久野氏と十把一絡げに批判されても困ってしまう。そこのところは、軽く苦言を呈しておきたい」と書いたら、FBのタイムラインに呉座先生から、「なるほど、『私は歴史学者をそれほどひどく罵倒しているわけでもない』つもりなんですね。良く分かりました」というコメントを私がかつてどっかのコメントで「歴史学者なんぞ政治も経済も基礎知識がない素人ですから」と書いたもののスクショが添えられてあった。

なんでも5年ほど前のものらしいのだが、さすが、歴史学者と見つけてこられた調査力に驚いた。

それに対しては、私は、次のように書いておいた。

「私が呉座先生の専門である文献史学について素人であるのと同じです。呉座先生は資料を分析し評価するプロとしての技術や見識をお持ちですが、その分析対象の政治、外交、経済については素人です。当たり前のことです」

「一般的な知識としてもそうですし、現実に中国や韓国の政府と厳しい交渉をしてきた経験は過去の同様の交渉を分析し評価するときにはかなりものをいいます。中央政府と地方自治体の関係はたとえば幕府と大名の関係を分析するときに力になります。武士の発想は現代の公務員の発想に実に似てます」

「百田氏や井沢氏のように歴史学者になんの価値もないようなことをいうのは賛成できませんがそれと一緒にされても困ります。また、官僚が官僚批判を聞いて腹も立つし、いかに何でもあんまりと思うことも多々ありますが、官僚批判を枕詞として使うくらいは我慢しますw」

ここで文献史学と私はいったが、呉座氏の週刊ポスト反論の言葉を借りれば、「史料を読む能力、そして史料を見つける能力は小説家より上である」のはそのとおりである。しかし、それだけである。ほかの分野にはそれぞれ専門家がいる。

ところが、文献史学にしろ考古学にしろ、学者は、自分たちが歴史家の本流だと勝手に決めてかかっている。

だが、これは二重に間違っている。まず、学問領域として歴史を解き明かすためには、それ以外のさまざまな専門家も関与しなければならない。

もうひとつは、歴史というものが世の中のためで何か役にたつためには、学者の世界で優勢であればいいのではない。世の中でどう判断するかが大事なのだ。

それに似た議論はほかの学問でも多い。医学で学会で主流になることより大事なのは、医療現場で採用されることだろう。

憲法学者の7割が自衛隊は憲法違反だとしているが、それが通説だと頑張ってみたところで、世の中では極めて小さい意味しか持っていない。

歴史をなぜ人々は学ぶかといえば、もちろん、真実を知るとかいうこと自体に意味がないわけでないが、もっと重要なのは現実の政治や経済や生き方を考えるために役に立てるためだ。そうであれば、学者だって、学会で認められること以上に、世の中で認められることにもっと価値の重点を置くべきだと思う。

日文研サイト、井沢氏サイトより

呉座氏は、安土宗論について井沢氏のおかげで正しい説が知られるようになったとしても、それは、「歴史ライター」としての功績であって、「歴史研究者」としての功績ではないと切り捨てているが、歴史研究者も歴史ライターもいずれも歴史家であって、優劣はないと私は思う。

井沢氏が呉座氏が所属する国際日本文化研究センター(日文研)について、その創設者の梅原猛氏が学者バカを嫌って日文研を創設したのに、呉座氏が正反対の立場で井沢氏を攻撃していると怒っていることにも、呉座氏は立派な反論をしている。

最近の歴史学者は昔ほど宗教を開始していないとか、日文研では異業種交流で研究会に作家も呼んでることもあるとかいうことだ。

それは結構だが、研究活動という土俵に異業種の人を呼んでいるということであって、異業種の人に学問成果を売り込むことは自分たちの仕事でないというように考えているように見える。

しかし、それは、正しいだろうか。新しい薬を考案した研究者にとって、それを使ってもらう努力をすることは、大事な仕事だと思う。

梅原氏は、論文を書いて学会で発表もしたが、一般の啓蒙にはことさら熱心で、日文研の研究者には地元の小学校で授業をすることを義務づけたり、自らも、孫の通う洛南中・高校で倫理の科目を自ら教員として年間を通じて教え、それを出版したりもしていたではないか。

呉座氏は、また、たとえば、本能寺の変の動機をうんぬんすることは、あまり意味がなく、結果が大事だという。はたしてそうなのだろうか。人々がなぜ明智光秀が、本能寺の変を起こしたかを知りたがるのは、たんなる興味本位ではない。それを知ることで、世の中の動きを予想したり、あるいは、自分と部下や上司の関係のヒントにしようという意味合いも大きい。

そういう意味において、光秀の動機を議論し探求することは意味のないことではないのだ。もちろん、井沢氏の『逆説の日本史』のとっている奇説はあまり好きでない。そもそも私の歴史本でよく使うのは、『◯◯に謎はない』というタイトルだ。

呉座氏にはぜひとも、つまらんといわずに、井沢氏の「奇説」を反論の余地がないまでに論破していくことも大事な仕事だと考えてもらいたいところだ。週刊ポスト記事の後半にある安土宗論についての丁寧な反論に井沢氏がどう答えるか楽しみだ。ぜひとも、モハメッド・アリとアントニオ猪木の異種目格闘技みたいなすれ違いは誰も期待していない。