大リーグ・マリナースのイチローの外野手(45)が21日、引退を表明した。その日は来ると誰もが考えていたが、やはり到来した。日米メディアはイチロー引退表明を大きく報道した。偉大な実績を残した、稀有な選手だったと改めて感じる。
イチローのプロ野球選手としてのキャリアや実績は日本のスポーツ記者の記事を読めば分かる。ここでは、イチロー選手の引退表明後の会見記事を読んで当方が感じた点をまとめた。
1時間20分を超える長時間の会見の後半、イチローが答えた以下の発言を紹介する。
「アメリカに来て、メジャーリーグに来て、外国人になったこと、アメリカでは僕は外国人ですから。このことは、外国人になったことで人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね。この体験というのは、本を読んだり、情報を取ることができたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので」(AERA dot3月22日配信)
イチローの「外国人になった」自分の発見とそれに伴うさまざまな世界は、イチローがいうように、本を読んだり、インターネットでサーチしたとしても実感としては理解できないだろう。日本のプロ野球で大きな実績を上げて大リーグ入りしたイチローにとっても、「アメリカでは僕は外国人ですから」と感じたわけだ。
イチローはその「外国人」の自分を発見することで、「人の心を虜ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね」と説明する。彼は「外国人」としてのステイタスが時間の経過と共に自身の精神世界を広げていったと証したのだ。簡単なことではない。
一般的にいえば、「外国人であること」は決して快い状況ではない。「外国人」であるゆえに馬鹿にされ、中傷され、誤解された経験は「外国人」に一度でもなった人ならば程度の差こそあれ体験しているだろう。もちろん、「外国人であること」が全てネガティブなわけではない。ポジティブなこともあるだろうが、「外国人」になった当初は残念ながら前者の体験の方が多い。ただ、「外国人であること」を長い間味わっていくうちに、イチロー選手のように後者の体験が多く生まれ、人間として成長できる契機ともなるわけだ。
「外国人」となるためには、生まれた母国を去り、異国で生活することだ。一方、自国で外貌も言語も服装も違う人間に出会った場合、「彼(彼女)は外国人」だ。「外国人」の生活を10年間務めた後、母国に帰れば、彼(彼女)は「外国人」の衣を脱ぎ、通常の国民の一人に戻る。その意味で、「外国人」という立場は決して永続的なステイタスではない。
21世紀は移民時代といわれる。経済移民ばかりか、政治移民、環境移民など様々な形態の移民が生まれている。その移民を受け入れるかどうかで、欧州では喧々諤々の討議が繰り返されている。少子化に直面し、労働者不足が深刻になった国々ではある一定の移民を受け入れる方向にコンセンサスが出来上がりつつある。
ところで、移民は「外国人」だ。言語も文化圏も異なる国からの「外国人」だ。その「外国人」がもたらすであろう様々な社会的軋轢を恐れ、移民受け入れを拒否する国もある。問題は単一民族だけの国家はもはや存在しないという現実だ。労働者不足が理由でなくても、様々な「外国人」が住み着いている。
移民問題を考える場合、イチロー選手のように、「外国人となったことで分かる世界」を多く体験した国民は貴重な人材だ。彼らは、移民問題を「自国ファースト」からではなく、「外国人」と共存できるグローバル世界へと導くことができる水先案内となれるからだ。
イチロー選手の証に倣って、「一度は外国人となろう」と呼びかけたい。「外国人」となった時、母国に住んでいた時には感じることができなかった世界が見えてくるのではないだろうか。
■
「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年3月23日の記事に一部加筆。