才能よりも大切なもの

私が嘗てリツイートした記事、『世界を変える「天才」たち 並外れた頭脳の秘密に迫る』(17年5月7日)の中に次の記述がありました--現代屈指の数学者の一人といわれるテレンス・タオは、幼少の頃から言葉と数字の理解力がずばぬけていた。そんな彼のために、両親は豊かな教育環境を整えた。本やおもちゃやゲームを与え、自分で遊び、学べるようにしたことで独創性と問題解決能力が育ったと、父親のビリーは考えている。

数学のノーベル賞と称されるフィールズ賞(2006年)受賞者のタオ氏は、「9歳で実家からほど近いフリンダース大学に飛び級で入学(中略)、24歳にしてカリフォルニア大学ロサンゼルス校の正教授に就任」された天才数学者の一人です。その彼自身、「才能は重要だが、それをどう引き出し、育てるかがさらに大切だ」と言われているようです。

英才教育ということでは、当ブログでも9年半前のブログ『医学教育の在り方』より、私は一貫した主張を続けています。Jewishの教育観の如く、親も先生も「この子の才とは一体何か」といったを突き詰め出来るだけ早期に見極めて、その才能や個性を育てるため様々な工夫を施してやらねばなりません。タオ氏のように数学が得意な人は朝から晩まで数学を勉強すれば良いでしょうし、語学が得意な人あるいは音楽が得意な人等々も然りで一日中個々人の才能開花に注力すれば良いでしょう。

私の基本的な考え方とは、一芸に秀でた人間を創るべく、極めて若く脳が柔軟な時に朝から晩までその分野における高等教育を受けさせて、どんどんチャレンジさせながら自由に伸ばせるを伸ばして行くべき、というものであります。タオ氏の如く能力があり才能がある者は、当たり前のように飛び級が出来るようにする等、その人の力量に応じ上にチャレンジ出来る機会をきちっと与えるようすべきです。尤も、子供達に人間学や情操面での教育を始め幅広い教養を身に付けさせる工夫や、学際的環境の中で彼らの才能を育てて行くことも、言うまでもなく大切だと思います。

また私は嘗て、『天才の特徴~「一時にパッとわかる。」ということ~』(14年3月31日)と題したブログで次の通り述べたことがあります――天才の特徴とはある意味類稀なる集中力だと考えており、此の集中力を有する人は、ある期間全総力を傾けて没頭することができ、それもその没頭たるや寝食を忘れるようなものであろうと思っています。やはり天才というのは、寝食を忘れるような集中力を持って一つの事柄を必死になって考えるということが重要であって、そうした努力なくして天才が次から次へと生まれることはあり得ないと思います。

此の文脈で申し上げても、親も先生も「この子は何が本当に好きなのか」をよくよく見て行く必要がありましょう。才有りと思われても、嫌いなことは長続きせず、本人の努力が続かなければ、それはそれで終わりになるからです。そういう意味では親にしても先生にしても、その才能が本物であると思えばこそ、それが好きになるよう如何なる教育が施されるべきか、と持って行ってやらねばなりません。

それからもう一つに、本人に好きなものを選ばせるという部分が非常に大事です。何故なら自分自身で好きにしたことは中々諦めず、集中して楽しくやって行くからです。『論語』に「これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」(雍也第六の二十)とあるように、才を開いて行く上では何より楽しんでやれるようなることが一番の近道だと思います。

他方、上記タオ氏の例を挙げるまでもなく、シビアな現実として生まれつきの資質の差は各人で結構大きなものだと私は思います。しかし天才数学者の類を目指すのでなく、ビジネスの世界でやって行くのであれば、努力次第で十分カバーすることが可能だと考えます。専門書を読む時でも、一度読んで理解出来なければ、もう一度読めば良いだけの話です。確かに時間は掛かりますが、中途半端に分かったつもりになって読み飛ばす人よりも、余程深く理解出来ましょう。

拙著『仕事の迷いにはすべて「論語」が答えてくれる』(朝日新聞出版)でも述べた通り、仕事は脳味噌だけでやるものではありません。良い仕事は、「才」に「徳」が加わってこそ初めて可能になります。典型的なのが、営業マンの仕事です。幾ら卓越した業界知識や商品知識を持っていたとしても、人間的魅力がなければ顧客からの信頼を得ることは出来ません。たとえ才には多少恵まれなかったとしても、徳を磨くことで才だけに頼った人間より余程大きな仕事が成し遂げられます。

例えば幕末から維新にかけての偉人、西郷隆盛と勝海舟を比して、「西郷隆盛は君子だったが、勝海舟は小人だった … 勝は頭脳明晰で、抜群に頭が切れる才人だったが、徳が才に劣っていた。だから小人のままで、君子にはなれなかった。一方、西郷は、徳のほうが才よりも勝っていたので君子であった」という批評があります。

「君子は器(うつわ)ならず」(為政第二の十二)と、孔子は『論語』の中で言っています。私達はよく「もっと器が大きな人間になれ」とか、「あいつは器が小さい」などと言いますが、「そもそも君子は器ではない」、即ち「一定の型にはまった人間ではない」と孔子は語っているわけです。上に立つ者の役割は、自分が器として働くことでなく部下という器を使いこなすことなのです。

才が突出した人間は、組織の中で優れた技量を有した器として非常に貴重な役割を果たします。但しその人が、組織のリーダーとして様々な器を上手に束ねられるかと言うと、それはまた別であります。また西郷隆盛のような徳の人は、リーダーとして大きな存在感を発揮します。「徳は孤ならず、必ず隣有り」(里仁第四の二十五)と孔子が言う通り、沢山の才ある人・徳ある人が西郷の下に集まってきました。しかし彼が、実務家として細かい仕事に長けていたかと言うと、それもまた別であります。

ですから自分が多少才に恵まれていないからと言って、それを気に掛ける必要性は全くありません。多少の能力の差は努力によってカバー出来ますし、そもそも上に立つ者に求められるのは才でなく徳なのです。そして徳は、誰もが生まれつき身に付けているもので、更には後天的に高めることが出来るものです。問われるのは、その人の生まれつきの資質や如何にということではありません。此の世に生を受けて後、その人が自分の意思でどう己を磨いてきたかであります。「柴(さい)や愚(ぐ)。参(しん)や魯(ろ)」(先進第十一の十八)という言葉があるように、孔子を継いだ曽参は魯(のろま)だったということです。

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