人は年を取ると自分が生まれた故郷に戻りたくなるのだろうか。普段は仕事にかまけて忘れていた故郷が突然、「帰っておいで」と囁きかけてくるからだろうか。「彼が国に戻ろうと考えているらしい」という情報を聞いてそんな思いが湧いてきた。
駐オーストリアの北朝鮮の金光燮大使の話だ。同大使は1993年3月18日にオーストリアの北朝鮮大使として赴任して既に26年が過ぎた。もちろん、ウィーンの外交界では最長駐在記録の保持者だ。3月が来るたび、「彼はまだオーストリアにいるのか」と少々ため息交じりに語る同胞の外交官もいるぐらいだ。金大使はトーマス・クレスティル、ハインツ・フィッシャー、そして現在のファン・デア・ベレンの3代の大統領を知っている数少ない外国外交官だろう。
「金大使はウィーンが大好きだ」、「彼はウィーンに骨を埋めるつもりだ」といった声が過去、ウィーン外交界で囁かれてきた。海外に駐在することは北朝鮮大使にとって大きな特権だ。その特権を自ら返して祖国の平壌に戻りたいと考える北外交官は本来、いない。
金大使の場合、奥さんが故金日成主席と故金聖愛夫人との間の長女、金敬淑さんであり、金正恩朝鮮労働党委員長の叔父さんにあたる人物だ。金ファミリーの一員として、これまで多くの特権を享受してきたはずだが、駐在期間が26年にもなると、やはり“疲れ”が出てきたのだろうか。ウィーンに赴任する前はチェコの大使も務めてきた。海外駐在大使として30年以上外地で生活してきたことになる。70歳の大台も迫ってきた。体力的に疲れたとしても当然かもしれない。
金大使は就任直後から何かあるたびに“病気”になってきた。もちろん、北の外交官特有の“政治病”だ。だから、「大使は病気で治療を受けている」という説明を大使館関係者から何度も聞いた。最近は背骨に問題があって歩行もままならないといった情報が流れてきた。どうやら今度はホントらしい。ここ数年、治療を受けている。
その金大使が「オーストリア・北朝鮮友好協会」の関係者に、「そろそろ国に戻ることを考えている」と漏らしたという。病気の治療のためだろうか。そのためならばウィーンに留まって治療を受けた方がベターだ。平壌からの送金が滞り、活動資金もままならなくなったためだろうか。ウィーン駐在の北外交官の月給は500ユーロ程度ともいわれている。外交官として華やかな付き合いなどできっこない。
金大使の場合、どうやら別の理由があるらしい。大使の実母が存命だ。そこで母親の傍に戻って最後の親孝行をしたくなったのではないか、というのだ。10年前にそれを聞けば信じなかったが、就任26年目を完了した今日、ひょっとしたら大使の本音かもしれないな、と受け取りだした。人は確実に年をとる。同時に、これまで気が付かなかった望郷の念が湧いてくるのだろう。母親が息子の帰りを待っていると分かればなおさらだ。
当方は金大使が駐在30年の大台をウィーンで迎えてほしいと思ってきた。金大使のいないウィーンの北大使館は考えられないからだ。金大使が駐在しているから、当方も北朝鮮の取材に力が入る。大使のいない北朝鮮大使館は暖房のない寂しい冬の大使館に戻ってしまうだけだ。
当方の勝手な思いはどうでもいい。金大使は26年ぶりの望郷の念に向かい合っているのだ。大使が実際、帰国するかどうかはまだ何も言えない。あと4年がんばってお勤めを全うするかもしれない。
朝鮮半島の政情は緊迫度を深めている。第2回米朝首脳会談の破綻後、金正恩氏は中国、ロシアにより傾斜する気配を示してきた。北朝鮮の独裁政治の終わりを要求する声が海外の脱北者から出てきた。北朝鮮の非核化の見通しはまったく分からなくなってきた。それだけに、何が起きても不思議ではない不気味な時間が流れている。
金大使がたとえ故郷に戻っても、母親を世話できる穏やかな時間を過ごすことができるだろうか、と心配になってくる。賢明な金大使がそんなことを知らないはずがない。それでも金大使は母親が待っている祖国に戻っていくつもりだろうか。望郷の念に乏しい当方はある意味で羨ましいほどだ。
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「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年3月29日の記事に一部加筆。