人間の「魂」の重さは2.5グラム

海外中国メディア「大紀元」日本語版で興味深い記事が掲載されていた。「死は2つの世界の中継点か」という見出しで、人間の魂の場所について米国の神経心理学者の発言を紹介し、「心臓を移植すると魂の記憶も移植された人間に移る」という。そして「心臓」は人間の性格や特長が存在する場所で、脳を制御し、感情、恐怖、夢、思想などを管理しているというのだ。

ウィーンの春の訪れ(2019年3月31日、ウィーン市16区で撮影)

昔から「心」はどこにあるかで様々な説があった。最もポピュラーな説は「頭部説」だ。頭部、脳にこそ人間の全ての感情、思考、記憶が機能し、保管されているというのだ。2014年のノーベル生理学・医学賞に英ロンドン大のジョン・オキーフ教授、ノルウェー科学技術大のマイブリッド・モーザーとエドバルド・モーザー夫妻の3人の脳神経学者が受賞した。

3人は「場所細胞」と呼ばれる機能を有する脳内の海馬について研究し、記憶の仕組みを解明していった。脳外科医によると、記憶は「海馬」という個所にあるから、その部分が傷つけば、記憶だけではなく、人間の精神機能は消滅するというのだ。シャーロックホームズの話では「マインドパレス」が頻繁に登場してくる(「『マインドパレス』の解明を急げ」2015年12月18日参考)。

イタリアの脳神経外科医が頭部移植を計画して話題となったことがあった。このコラム欄でも紹介した。頭部を切り離し、他者に移植すれば、移植先の人間にその頭部の持ち主が移動する。老人となり、疾患で上半身の健康を失った人間が自身の頭部を健康な人間の上半身に移植すれば、その人は自身のアイデンティティを維持しながら若返るというわけだ(「脳神経外科医の『不死』への挑戦」2016年10月22日参考)。

写真AC:編集部

「頭部説」の次は、魂は心臓にあるという説だ。人々が大好きな「ハート印」だ。しかし、厳密にいえば、100%、私の心、魂はここにあると納得できる説はまだない。面白い説では、魂が足にあると唱える学者も昔いた。ひょっとしたら、ウサイン・ボルト(100、200mの短距離世界記録保持者)の場合はそうかもしれないが、大多数の人間は足で思考し、足で苦悩しているとはどうしても思えない。

もっと究極の問いが出てくる。心、魂というものは存在するのか、だ。唯物論と唯心論で学者の間で喧々諤々の論争があった。最近は脳の中に心の機能があるという「脳神経説」が主流となりつつある。だから、脳神経学者は時代の寵児となり、メディアなどに引っ張りだこになる。人は自分の魂がどこにあるか知りたいからだ。

それに対し、キリスト教世界では、神は人間の肉体を創造した後、そこに「息を吹き入れた」という個所がある。旧約聖書の「創世記」第2章によれば、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」という。息は神の生命であり、人間の魂だというわけだ。人間をサルや動物と区別するものは神の息、魂というわけだ。

「大紀元」によれば、1915年、人間の魂の重量は、22.4グラムであると発表されたが、米国の科学者が1990年末、さらに精密に魂の重さを量ることに成功し、死後の体重は生前より2.5〜6.5グラム減少したことが分かったという。すなわち、肉体の死を迎えた魂が死後、その肉体から抜けていって永遠の世界に移ったので、その人の体重が2.5から6.5グラム軽くなったことから、魂の質量が測量されたわけだ。

それにしても、人間の魂が2.5グラム、最大6.5グラムの重量に過ぎないのだろうか。余りにも軽すぎるのではないか。ルネ・デカルトは「方法序説」の中で「我思う、ゆえに我あり」と語ったが、哲学の世界の重量が2.5グラムだと分かれば、哲学者はやりきれなくなるかもしれない。考えることが馬鹿らしくなる唯心論者が出てきても不思議ではない。しかし、冷静に考えれば、「神の息」が人間をして人間らしくしていると考えれば、その息の質量が軽くても文句は言えない。

無神論的進化論者は、人間は創造されたのではなく、偶然の変化と自然選択の中で進化してきたと考え、他の動物とは大きな違いがないと主張している。ただし、進化論を裏付ける中間種は存在せず、全ての存在物は短期間にいっきょに生まれてきていること、地球を含む宇宙の生命適応性、観測可能性を説明できないことなど、進化論の欠陥が次第に明らかになってきている。

にもかかわらず、進化論は21世紀に入っても創造論よりも多くの支持者を集め、一種の信仰となってきた。あれもこれも、魂の有無、その所在地が分からないことから起因する誤謬だ。21世紀の最大の科学的課題は魂の所在地を明確にすることだろう。

ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年4月2日の記事に一部加筆。