戦後史と近代の天皇制を理解するうえで、もっとも悪質な都市伝説は、昭和天皇の『人間宣言』であると考えている。昭和天皇がそのような趣旨の宣言などしていないと強く念押しをされているにもかかわらず、戦後史観派も保守派にも誤解する人、というか擁護するのか否定するのかは別として不必要に重大事にしたがる人がいるのは残念だ。
昨日も、『「即位の礼」への公費支出:天皇は“神”だったのか?』という記事が出て、「人間宣言」を前提にした議論が展開されていたので、改めて、論じておきたい。
まず、この人間宣言をめぐる事実関係については、『日本と世界がわかる 最強の日本史』(扶桑社新書)において詳しく解説したので、それを少し簡略化して掲げよう。
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昭和天皇がご自分のご意見をオープンに、はっきり仰ることはまれだった。ですから、多くが念入りに用意されたような、公式の発言以外は、側近がまとめた「昭和天皇独白録」とか書き残した「富田日記」(靖国神社のA級戦犯合祀に反対されていたことが記述される)といった日記類いのものから推測しなくてはならない。
しかし、珍しく積極的に発言を求められたことがある。戦後、新しい時代に対する昭和天皇の最初の意思表明は、昭和21年(1946)年の念頭詔書だった。「人間宣言」と呼ばれることになったものだが、もとより、それはマスコミが勝手につけた名前だ。
その中身は
顧みれば明治天皇が明治のはじめにあって、国の方針として五箇条のご誓文を給われた。(中略・五箇条のご誓文の紹介)。我が国は、未だかつてない変革を成そうとしている。私自らが率先し、天地神明に誓って、このような国是を定め、万民保全の道に立つので、国民もこの趣旨に基づき、一致団結して努力して欲しい。
という内容だった。
それに引き続き、
私と国民との結びつきは、相互の信頼と敬愛とによるもので、神話や伝説によって生まれたものではない。天皇を現御神(ルビ:あきつかみ)とし、日本国民を他の民族より優れたものと見なして、世界を支配するという架空の観念に基づくものではない。
といったくだりがあるので、これが主たる趣旨だと曲解して「人間宣言」と名付けた人たちがいた。昭和天皇は、これがひどく不満でだったらしく、1977年の記者会見でとくに発言を求められた。
それ(五箇条の誓文を引用する事)が実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題だった。当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、日本が圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。
日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのだ。
はじめの案では、五箇條ノ御誓文は日本人ならだれでも知っているので、あんまり詳しく入れる必要はないと思ったが、幣原総理を通じてマッカーサー元帥に示したところ、マ元帥が非常に称賛され、全文を発表してもらいたいと希望されたので、国民及び外国に示すことにしました」と異例の言及をされた。
つまり、天皇がみずから、明治体制がそもそも民主主義的な指向をもっていたのであって、日本が軍国主義に戻るようなことがないように歯止めをかければよいだけという考え方だったわけである。
神であるかどうかについては、GHQがそれを昭和天皇に否定してほしいと要望し、昭和天皇は、そんなことを主張したこともないとして受け入れた。
しかし、この詔書はもともとはタイトルがないのだが、公式の文書において
「新年ニ当リ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス国民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」(官報目録)
「新年ヲ迎フルニ際シ明治天皇ノ五箇条ノ御誓文ノ御趣旨ニ則リ官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、新日本ノ建設方」(法令全書)
とされていることからして、人間宣言とこれを呼ぶことは著しく不当であろう。
当時の朝日新聞の見出しも「年頭、国運振興の詔書渙発 平和に徹し民生向上、思想の混乱を御軫念」であって、現人神でないというのを主眼とはみていなかったし、また、神でないということが書かれていたとしても「人間宣言」というタイトルは勝手にマスコミなどが後になって付けたものだ。
また、神であったのかどうかとか、神の子孫であることは否定するのかどうかも曖昧になっており、それが厳密にどういう理解であったかどうかを勝手にこうだったなどと言うのは、後付けの説明に過ぎないと思う。
いずれにせよ、昭和の特異な精神の時期は別にして、明治体制と戦後体制に断絶はないというのが昭和天皇が全身全霊をもって主張されたことであり、国と宗教の関係であれ、憲法制定の合法性であれ、戦後史観派と保守派のなかの両極端がそれぞれ違う立場から断絶を強調するのは少なくとも昭和天皇を悲しませることであることは間違いない。
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ただ、そのことは、憲法改正の必要性を否定するとかに利用されるべきものではない。戦前の朝日新聞のドンであり、東条内閣打倒に尽力し小磯内閣の情報相となり、東久邇宮内閣の内閣書記官長(官房長官)だった緒方竹虎は、憲法改正の必要について、以下のようなことを述べている。
「憲法の改正の理由の一つは、あの憲法が占領軍によって強制されたというその事実があまりに露骨になっている」
「強制された筋道があまりにはっきりしている。これでは私は国民の独立の気迫というものが浮かんでまいらないと思う」
「同じ憲法を起草するに致しましても、これを自主的に検討致し、もう一ぺん憲法を書き直す必要があるというのがわれわれの決意であります」
このように、明治憲法と日本国憲法の連続性や考え方の共通性を肯定しつつ、そこに強制があった以上は、あらためて日本人自身で内容を変えるかどうかは別として改めて改正か確認作業が必要だという考え方は健全であろうし、現在でも通用するものだろう。
天皇が神であるとか無いとか、皇位継承の儀式に宗教的な要素が入ってはいけないのかなどは、少なくともわざわざ先鋭化させた議論などするだけ国民統合に反するだけであろう。
参考①近刊『令和日本史記』(ワニブックス)より
昭和21年(1946年)の年頭詔書は、「人間宣言」と俗称されるが、この趣旨について、昭和天皇は日本の民主主義の出発点は、「五箇条の御誓文」に始まるものだとして戦前・戦後の連続性を強調したのに変化を語ったものと誤解されたとのちに記者会見で語っておられる。
参考②『「日本国紀」は世紀の名著かトンデモ本か』(ぱるす出版)より
昭和21年(1946年)の年頭勅語で、五箇条の御誓文などを持ち出して、民主主義は日本の伝統維持と明治体制の発展として捉えられるべきものだとし、押しつけられただけではないと位置づけられた。
この年頭勅語は「人間宣言」と呼ばれ、天皇自身が自分は現人神でないと仰ったという都市伝説が広く信じられているが、昭和天皇には、そのようなつもりはなく、断絶より連続を意識したものであると、昭和60年(1985年)に、昭和天皇はわざわざ記者会見で発言を求めて念を押されている。しかし、『日本国紀』には、この重要な勅語についての記述はない。
憲法の改正は大日本国憲法の正規の改正としての手続きを踏んで行われ、その祝賀行事などにも昭和天皇は積極的に出席している。『日本国紀』では、改正への昭和天皇の積極的な関与は、改正論にとって不都合と判断したせいか、書かれていない。
宮澤俊義という東京大学の憲法学者が、これは大日本帝国憲法で改正できる範囲を超えているから,八月革命が起きて旧憲法を廃止して、国民が自ら制定した憲法だとか制定経緯とかけ離れた学説を唱えていまも信奉者がいるが、そんなものは、自分の学説で明治憲法から新憲法への改正について説明出来ないので苦し紛れに唱えた説だ。そして、実務上もそんな学説のとおりに改正手続きが進められたわけでない。
『日本国紀』では、宮沢が公職追放を免れるために「八月革命説」を考え出したとしているが、この八月革命説が出て新憲法が昭和天皇の思いとは離れて明治憲法と断絶したものというイメージを与えられたことは、逆に保守サイドの新憲法に対するネガティブな反応を引き出し、押しつけ憲法論に道を開いて新憲法の権威を貶めたと私は思う。