西部邁氏のささやかな回想 --- 吉岡 研一

寄稿

私は一度だけ、西部邁氏の講演を聞いた事がある。場所は横浜市のある区の公会堂だった。

当時、西部氏は「朝まで生テレビ」に出始めた頃だった記憶する。偶然、控室のドア越しに、関係者と静かに談笑する西部氏を見たが、あの眼の輝きは忘れられない。眼窩から光が溢れ出ているといった様子だった。

「朝生」に出演中の西部邁氏:編集部

講演の内容はリクルート事件や消費税やマドンナ旋風などの時事ネタを織り交ぜながら、大衆社会、民主主義批判を展開するもので、生涯を通じて語られる主題がすでにそろっていたが、それらはさほど興味が持てるものではなかった。

ただ一つ印象に残ったのは、リクルート事件にかこつけた「濡れ手に粟」という批判に対して、マンデヴィルの「蜜蜂物語」を引用していて反論していた事だ。ある評論家が田中角栄擁護にこの書を引用していたからだ。自民党擁護者の共通文献だったのか、一瞬そう思った。

私が惹かれたのは、講演内容より、むしろその語り口だった。その論の進め方や説明の仕方は、快刀乱麻を断つというより、鉈で節くれ立った堅木を割る様な素朴な力強さがあり、批判の仕方は論破というより説破という趣があって、日本人の心理、生理に合っていると思った。

講演の最中に、今でも印象鮮やかな出来事があった。西部氏は、もの静かにとつとつと語っていたが、突然、マイクが故障した。即座に別のマイクに替えられたが、珍しい事にそれも使えないものだった。

しばらくマイクをいじっていた西部氏は、突然マイクを脇に置いて肉声で語り始めた。講堂は中学の体育館くらいの広さだったが、声の調子も語り口もマイクを使っていた時と同じく物静かなのに、不思議な事にその声は、マイクを使用した時と同じ大きさで明確にとどいた。これには心底驚いた。学生運動の指導者だったのもうなずける。氏は語りの人だ、私はその時、そう思った。

講演の後に私はこんな内容の質問をした。「1950年代は知識人の発言が、社会に大きな影響を与えたが、現在はその影響力が落ちている様に見えるが、先生はどう思われるか?」これは、講演の中で西部氏が知識人の役割を語っていたのを受けてのものだが、答えは「知識人が影響を及ぼす社会にしてみせる!」そう、力強く言い切った。

その後、私は西部氏の講演に行く事はなかったが、「朝まで生テレビ」での討論はよく見た。日本国憲法平和主義批判、大衆民主主義批判が茶の間を通じて大衆に膾炙したのは、氏の功績ではないだろうか?

私が最後に西部氏を見かけたのは偶然だった。

あるクラシック音楽会の終演後、舞台裏の楽屋で、私は西部氏を見た。ちょうど指揮者の控室に挨拶をしに行く所だった。私は友人と2人で談笑しながら、氏の前を歩いていたが、会話の中で共産党という言葉が出た。当日の演奏会の会場の建設に共産党が尽力したという赤旗の記事を話題にしていたのだが、この言葉を聞いた西部氏はギョッとしてこちらを振り向き、我々を睨みつけたがすぐに控室に入っていった。

話しかける機会を逸したのだが、悔いはなかった。すでに、私は西部氏に興味を失っていたからだ。その頃、氏は極端な反米に傾斜していて、同じ保守派からも孤立していた。歴史と現実から遊離した、信仰告白の様な反米論に、私はほとんど興味が無かった。

西部氏が死去した後、氏の著作や動画のいくつかに眼を通したが、私はエリック・ホッファーの知識人の定義をしきりに思い浮かべた。彼は知識人を「自分は教育のある少数派の一員であり、世の中のできごとに方向と形を与える神授の権利を持っていると思っている人たち」(『波止場日記』2頁 みすず書房)と定義したが、西部氏は間違いなくこの定義に当てはまる。

しかし、この役割を氏は最後までまっとうできたのだろうか?あの反米の苛立にも似た筆致、口調は日本国や日本人だけでなく、自分自身の不本意にも向けられたものではなかったか?

今、私は、この様な残酷な思いを押える事ができない。

吉岡 研一 ホテル勤務 フロント業務
大学卒業後、司法書士事務所、警備員などの勤務を経て現職。