憲法学者の憲法解釈の指針は何か:奥野教授の拙論への批判に応える

篠田 英朗

龍谷大・奥野恒久教授(同大サイトより:編集部)

龍谷大学で憲法学を教えていらっしゃる奥野恒久教授が、私の著書を論じる内容の論文を一本書かれた(「『戦後日本憲法学批判』に向き合う」『龍谷大学政策学論集』第8巻第12合併号)。憲法学者の方に正面から論じていただいた論考が公刊されたのは初めてなので、大変に光栄である。

「篠田の議論が憲法問題に関心を寄せる市民に参照され、影響を与えていることを重く受け止め…憲法学研究者として応答を試みる」(47頁)というもので、大変にありがたいものだ。篠田への批判としては、水島朝穂教授のブログがあるが、残念な内容だったので(過去記事参照)、今後も奥野教授のような方が増えてくださると本当にありがたい。

もちろん奥野教授の論考の狙いは、篠田の批判である。私としては、奥野教授のご厚意に感謝しつつ、論点を拾い出す形でコメントをしてみたい。

「抵抗の憲法学」の描写に対する批判

私は拙著『ほんとうの憲法』の中で戦後日本憲法学を特徴づける概念として「抵抗の憲法学」という言い回しを使っている。これは私が考えたものではない。高橋和之・元東京大学法学部教授が使い、その後に石川健治・東京大学法学部教授が使っている(拙著251頁注3)。私はそれを念入りに分析しているだけだ。憲法学者が自分で使うのはOKだが、国際政治学者がそういうことを言うのはダメだ、というのは、不当だろう。

もちろん私が、高橋教授や石川教授が語っていないことを語っているのは確かだが、分析をしているだけだ。分析の過程において、「権力を制限する」ものとして立憲主義の概念を使いたがる傾向について論じている。奥野教授は、これに対して、「憲法学でも国民主権と民主主義の緊張関係は論じられている」といった指摘をしているが、私の議論とかみあっていない。

あまりにも政府が国民の代表者であることを軽視して、一方的に政府を制限することを無条件に良しとする「抵抗の憲法学」の傾向がある、そのことについて、私は分析をしている。

私が論じているのは、たとえば、主権という概念とは別に「統治権」という実定法上の根拠のない概念を、極めて実体化したうえで、堂々と若い法律家たちに教え込もうとする憲法学者の態度に、いったいどんな法的根拠があるのか、といったことだ。「主権」とは区別された「統治権」がないと、憲法学にとって不都合だ、と感じているから、そういう法的根拠のないことを無批判的に行っているのではないか、と疑わざるを得ないのだ(サントリー財団『アステイオン』90号[20195月公刊予定]掲載予定の拙稿「『統治権』という妖怪の徘徊~明治憲法の制約を受け続ける日本の立憲主義~」もご参照いただきたい)。

憲法9条解釈に対する批判

長谷部恭男教授が、今年の1月に出た岩波文庫に寄せた「解説」文について、拙論を書いたばかりだが、篠田の憲法9条解釈批判は、今や面白い意味を持っている。

長谷部教授は、今世紀になってから、学会通説を変えるべく、自衛隊を合憲とする内容の著作を出した人物である。その長谷部教授は、今や二正面作戦を強いられている。

一方では、自衛隊違憲論を信奉する伝統派に対抗して、自衛隊合憲論を通説化させようとし続けている。条文にとらわれない憲法学者の「良識」で進めてきたプロジェクトだ。憲法9条と国際法のつながりも、役立つところがあるのであれば、利用してもいいのだろう。

ところが、この試みはうっかりすると、足を取られる。なぜなら憲法が国際法に結びついている経緯を明かせば明かすほど、「個別的自衛権は合憲だが集団的自衛権は違憲だ」という主張が、怪しくなってきてしまう。そこで長谷部教授は、さらにいっそう憲法学者の「良識」とやらを強調して、「自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲」という立場を維持しようとする。

だが、それは本当に法律論によって支えられている議論なのか?ただ憲法学者たちの「良識」に訴えるだけで、法律論としては、学術的には、まだ全く成功が証明されていない作業のままなのではないのか?

日本国憲法署名原文(複製、国立公文書館サイトより:編集部)

さて、奥野教授は、そんな長谷部教授のような立場を助けることができるだろうか?奥野教授は、長谷部教授が満足するようなやり方で、篠田を否定できるだろうか?

奥野教授は、「国民」と「アメリカ」の力を借りて、篠田の憲法論を否定する。恐縮だが、よくあるタイプの議論だ。

篠田の9条解釈を見て、奥野教授は、「何ゆえ、戦勝国の意図に基づいて日本国憲法を理解しなければならないのか」(奥野論文55頁)と訴える。「憲法9条の解釈にあたり国際協調主義を踏まえるとしても、あくまでも国民の視点で行わなければならない」(同上)と主張する。

奥野教授によれば、篠田の憲法9条解釈を許すと、「アメリカの世界戦略への加入」(奥野論文56頁)になる。奥野教授は、篠田の解釈では「92項の意義が全く見出されていない」と断定し、「国民の視点から92項の意義が語られなければならない」(奥野論文57頁)と主張する。

こういった篠田の否定論が正しいとすれば、憲法の解釈にあたっては「アメリカの政策に同調する可能性がある憲法解釈は否定されなければならない」という原則が事前に確立されていなければならない。しかしそんな解釈原則は、さすがにどんな憲法学の教科書にも書かれていない。そんな解釈原則が正しいと、学術的に証明されたことは一度もない。

…国民主権が憲法の三大原理の一つだ。篠田は憲法「前文」に書かれている「原理」は「信託」の一つだけだ、とか憲法学通説を否定するようなことを言っているが、まあそれは無視しよう。とにかく憲法学通説では国民主権が三大原理の一つなのだから、「国民の視点」に立つということが、憲法解釈の原則だ。ところで篠田は、「国民の視点」に立っていない。だから篠田は間違っている。これに対して、憲法学者は「国民の視点」に立っている。したがって憲法学者は正しい。

果たして、こういう議論は、本当に学術的な議論なのだろうか。

一方では、憲法学者は主権者「国民」も憲法には服することを認める、だから「抵抗の憲法学」を強調する篠田は間違っている、と主張する。

他方では、篠田の憲法解釈は「国民の視点」に反している、したがって「国民の視点」に寄り添っている憲法学者が正しい、と主張する。

「国民の視点」とは何なのか?どこにも説明がない。「アメリカの世界戦略」ってつまり何?どこにも説明がない。ただ、こうした不明瞭な言葉が、篠田を否定するには十分なもの、として提示される。

これは法律論なのか。初めに結論ありきで、ただあとは印象操作で言葉が並べられているだけなのではないか。奥野論文を読むと、疑問が次々と沸き起こってくる。

….と、言いながら、しかし、最後に繰り返し申し上げる。私の議論をとりあげて論文を書いてくださった勇気ある憲法学者である奥野教授に対しては、心より感謝している。最後にあらためて、深く敬意を表したい。

篠田 英朗(しのだ  ひであき)東京外国語大学総合国際学研究院教授
1968年生まれ。専門は国際関係論。早稲田大学卒業後、ロンドン大学で国際関係学Ph.D.取得。広島大学平和科学研究センター准教授などを経て、現職。著書に『ほんとうの憲法』(ちくま新書)『集団的自衛権の思想史』(風行社、読売・吉野作造賞受賞)、『平和構築と法の支配』(創文社、大佛次郎論壇賞受賞)、『「国家主権」という思想』(勁草書房、サントリー学芸賞受賞)など。篠田英朗の研究室