今年1月に出た岩波文庫の『日本国憲法』は、日本国憲法とあわせて、英文日本国憲法、大日本帝国憲法、パリ不戦条約、ポツダム宣言、降伏文書、日本国との平和条約、日米安全保障条約のテキストを収録するという意欲的な仕組みになっている。
国際的な流れの中で日本国憲法を位置付けるのは、正しい方法であり、歓迎したい。
解説は、あの長谷部恭男教授である。憲法学者がかかわっている憲法理解が、このような形で提示されていることは、素晴らしいことである。賞賛したい。
それにしても、長谷部教授の解説文は、目を見張るものだ。
国際紛争解決の手段としての戦争を禁止する不戦条約の文言を受けた日本国憲法九条一項も、同じ趣旨の条文であり、禁止の対象を武力による威嚇と武力の行使へと文言上も明確に拡大したものである。「戦力(war potential)」の保持を禁じずる二項前段も、「決闘」としての戦争を遂行する能力の保持を禁ずるものと理解するのが素直であるし…、「国の交戦権」を否定する二項後段も、政府が一九四五年以来、一貫して有権解釈として主張してきたような、交戦国に認められる諸権利の否定ではなく、紛争解決の手段として戦争に訴える権利(正当原因)はおよそ存在しない、という趣旨に受け取る方が筋が通るであろう。一項と二項を分断した上で「戦力」「交戦権」など個別の概念に分解して解釈する手法は、条文全体の趣旨を分かりにくくする。
出典:長谷部恭男「解説」岩波文庫『日本国憲法[2019年]所収、171頁。
つまり長谷部教授は、1946年日本国憲法9条1項が1928年不戦条約と同じ趣旨のものであり、1945年国連憲章の文言にしたがった文言整理も行われている、ということをはっきり認めた上で、その延長線上で「戦力(war potential)」と「交戦権」概念を位置付けるべきことを提唱している。あえて内閣法制局の有権解釈の間違いを指摘しながら、提唱しているのである。
私は、2016年に『集団的自衛権の思想史』を出版し、2017年7月に『ほんとうの憲法』を出版した。そこで私が提示した憲法9条解釈は、次のようなものであった。
9条1項で放棄されている「戦争(war as a sovereign right of the nation)」は、その文言から国際法で不戦条約以降に放棄されている「戦争」のことを指していることは、明らかである。したがってそこでは自衛権は放棄されていない。その1項の「戦争」の理解に沿って9条2項の「戦力(war potential)」を解釈すべきなのは、その文言から、明らかである。したがって9条2項は自衛権行使の手段を禁止していない。9条1項は「不戦条約」と「国連憲章」に強く影響された文言であり、そこで放棄されている「戦争」に自衛権が含まれたりしないことは、確立された国際法規から自明である。
憲法学通説は、伝統的に、私のような解釈の余地を認めてこなかった(芦部信喜『憲法学I憲法総論』[有斐閣、1992年]261頁、樋口陽一「戦争放棄」樋口陽一(編)『講座憲法学2主権と国際社会』[1994年、日本評論社]111頁、高橋和之『立憲主義と日本国憲法』[2017年、有斐閣]、53-54頁など)。
国際法にそった9条1項解釈の可能性を認めつつも、それを最後に覆すために、2項の「戦力」不保持を持ち出すという手法をとっていた。仮に1項で「自衛戦争」(憲法学者はわざと自衛権行使のことを「自衛戦争」と呼ぶが、実はそのような用語法には法的根拠がない)が留保されているとしても、2項で「戦力」が禁止されているので、結局、「自衛戦争」はできない、と憲法学者たちは論じてきたのである。
私の主張は、この憲法学通説の解釈は、逆さまだ、というものであった。1項で先に国際法に合致した「戦争」概念が登場している以上、2項の「戦争潜在力(war potential)」としての「戦力」も、1項に続いて1項と同じ「戦争」概念が用いているものとして解釈するのが正しい、というのが、私の主張である。したがって2項で不保持が宣言されている「戦力(war potential)」には、1項で禁止されていない自衛権の行使の手段は、含まれない。それが最も論理的な解釈である。2019年1月の長谷部教授が言うように、9条1項・2項を一続きのものとして体系的に理解する解釈である。
しかし長谷部教授は、自分の主張が篠田と重なるところがある、などということは、絶対に認めないだろう。
まあ、それはいい。
だが気になるのは、長谷部教授が、いつから「war potential」に言及するような解釈論を提示するようになったか、である。
長谷部教授は、まだ東大法学部教授であった2004年に出版した『憲法と平和を問い直す』で自衛隊合憲の議論を提示し、話題を呼んだ。だがそれは、ひどくふわっとした、絶対平和主義は特定の価値観の押し付けなので、「穏健な平和主義」あたりがいい、といった曖昧な主張であった。
そのとき、長谷部教授はむしろ、「日本の憲法学者は、法律学者が通常そうであるように、必ずしも、つねに剛直な法実証主義者として法文の一字一句に忠実な解釈を行うわけではない」(長谷部『憲法と平和を問い直す』142頁)、などと平気で主張していた。そのうえで憲法の「解釈運用は、最後は専門の法律家の手に委ねられる」(同上、173-174頁)べきだと平気で主張していた。
つまり、長谷部教授好みの「穏健な平和主義」が正しいのは、文言解釈にはとらわれない憲法学者の解釈に憲法解釈を委ねることが、憲法学者が信じる最も正しい憲法解釈の方法だから、憲法学者の解釈に憲法解釈を委ねて憲法を運用していかなければならないからでしかなかったのである。この驚くべき憲法学者中心主義それ自体は、最近の著作でも貫かれている。
参照拙稿:長谷部恭男教授の「憲法学者=知的指導者」論に驚嘆する
いずれにせよ、以前の著作において、決定的な自衛隊合憲論を主張する著作においても、長谷部教授は、「war potential」の概念を提示することなどはしていなかった。むしろ、憲法解釈は、憲法の文言に委ねるのではなく、憲法学者に委ねろ、という話しかしていなかったのである。
それ以降の著作でも同じだ。私も長谷部教授の憲法9条論はだいたい確認しているつもりである。しかし最近になるまで、長谷部教授が、「war potential」についてふれているのを見たことがなかった。長谷部教授がようやく初めて「war potential」についてふれたのは、私の『ほんとうの憲法』が出版された数か月後の2017年10月のことである。ウェブサイトにおける連載記事で、長谷部教授は、2017年10月に、次のように書いた。
戦力ということばは、いろいろに理解できることばである。歴代の政府は、このことばを「戦争遂行能力」として理解してきた。war potential という条文の英訳(総司令部の用意した草案でも同じ)に対応する理解である。9条1項は、明示的に「戦争」と「武力の行使」を区別している。「戦争遂行能力」は「戦争」を遂行する能力であり、「武力の行使」を行う能力のすべてをおおうわけではない。そして、自衛隊に戦争を遂行する能力はない。あるのは、日本が直接に攻撃されたとき、必要最小限の範囲内でそれに対処するため、武力を行使する能力だけで、それは「戦力」ではない、というわけである。
出典:その10 陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない(白鳥書店:長谷部恭男「憲法学の虫眼鏡)
2017年10月になってようやく「war potential」の概念を参照するようになった長谷部教授は、しかしまだ「歴代の政府」と「総司令部」の解釈がそれだ、という突き放した言い方で、「war potential」を参照するだけであった。つまり2017年10月にようやく「war potential」について触れ始めた長谷部教授は、しかしまだその時点では2019年1月の岩波文庫の「解説」における文章のように、「war potential」を自分自身の9条2項解釈の基盤とするほどの立場はとっていなかった。長谷部教授の憲法9条理解は、変化し続けているのである。
ちなみに2017年10月の長谷部教授の言説は、問題を含んでいる。長谷部教授は、「歴代の政府」の解釈は、「総司令部」の「war potential」の理解と同じだ、と2017年10月に主張した。しかし日本政府が「war potential」という概念を参照して憲法9条2項解釈を行った記録を、私は知らない。存在していないと思う。日本政府が「war potential」を参照して「総司令部」のように国際法にそった9条解釈を施した、という経緯はない。
ところが2019年1月になると、その解釈を、長谷部教授は、自分のものともした。かえって今度は、日本政府の「戦力」「交戦権」の理解はおかしい、と言い始めた。つまり「war potential」として「戦力」を解釈しない日本政府はダメな憲法解釈をしており、したがってこの点では内閣法制局の有権解釈も否定されなければならず、「war potential」として「戦力」を解釈する自分は優れている、ということを示唆するようになった。2019年1月の長谷部教授は、「総司令部」には、ふれない。
どういうことなのか、私には、長谷部教授の態度が、全く不明瞭なものにしか見えない。
私のように日本国憲法における「戦争(war)」「戦力(war potential)」概念を、不戦条約や国連憲章によって代表される国際法規範にそって解釈する私の立場を採用するのであれば、もはや個別的自衛権だけは合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、などという国際法に反した主張を維持するのは、著しく困難になるはずだ。
だがもちろん長谷部教授が、今になって集団的自衛権の合憲性について、私と同じ立場をとるなどということは、想像できない。それはもう期待しない。しかしそれにもかかわらず、実際には、以前の長谷部教授の9条解釈では見られなかった解釈方法を、2019年1月の長谷部教授は行うようになっている。
それはどういうことなのか?全く不明瞭である。
これでは長谷部教授は、国際法と憲法の関係について、まったく一貫性のない、つまみ食い的な態度しかとっていないのではないか?という疑惑が深まっていかざるをえない。
*****ところで、この文章を読んでいる方で、長谷部教授の言説について一貫性のある体系的な説明ができる方がいたら、私にそれを教えてほしい。また、2017年7月以前に、長谷部教授が「war potential」に参照している文章があることを知っている方がいたら、やはり私にそれを教えてほしい。*****
長谷部教授は、2018年の『憲法の良識』で、次のように述べた。
このところ、日々憲法について発言する人々の顔ぶれを見ると、その大部分は、憲法の専門家ではない人たちです。専門外の問題について憶することなく大声で発言する、その豪胆さには舌をまくしかありませんが、こうしたフェイク憲法論が世にはびこることには、副作用の心配があります。これは高血圧に効く、あれは肥満に効くといわれるリスクの中には、にせグスリもあるでしょう。……その結果として起こるおかしな事態は、最初におかしな言説をとなえた人たちだけに悪い影響をもたらすわけではありません。日本の社会全体に悪影響が及びます。(203-204頁)
つまり長谷部教授にとっては、私、篠田英朗、という人物も、存在していないに等しいものでしかない。私の『ほんとうの憲法』という著作も、存在していないに等しいものでしかない。
したがって長谷部教授の『ほんとうの憲法』以降の言説が、『ほんとうの憲法』における議論とどういう関係にあるのか、という問いは、長谷部教授が絶対に受け入れることのない問いだ。仮に長谷部教授が「war potential」について参照し始めたのが、私の『ほんとうの憲法』の公刊後のことであったとしても、それは長谷部教授は決して参照することのない事実である。なぜなら私の『ほんとうの憲法』という著作自体が、長谷部教授にとっては、この世に存在してはならない憲法論でしかないからである。存在してはならないものなのだから、長谷部教授は決して私の著作を参照することはない。
しかし、どうだろう。仮に、長谷部教授が、私が指導している博士課程の学生だったとしたら、どうなるだろう。
指導教員である私は、長谷部教授のような博士課程の学生に、次のように言わなければならない。
「先に自分の議論に関係している議論をしている著作があったら、きちんとそれを参照しなければ、学術的には、剽窃(plagiarism)に該当してしまうんだよ。君が、そんな著作の存在は認めない、意識化していない、だから剽窃にはあたらない、と主張するとしても、それはダメだ。学位をとりたかったら、剽窃行為だと言われないように、きちんと関係している先行研究を参照しなさい。」