「イスカリオテのユダ」の名誉回復?

世界のローマ・カトリック教会総本山バチカンのサンピエトロ広場で21日、ローマ法王フランシスコが復活祭の記念ミサを行う。イエス・キリストが十字架上で死去、その3日後に復活したことを祝う日だ。正教会暦では1週間後の4月28日が復活祭となる。

フランシスコ法王、聖木曜日の洗足式で受刑者の足を洗う(2019年4月18日、バチカン・ニュースのHPから)

ところで、新約聖書によれば、12弟子の1人「イスカリオテのユダ」が30枚の銀貨を受け取り、イエスを祭司長らに引き渡し、イエスは連行され、十字架上で亡くなった。そこでキリスト教では久しく、ユダを裏切り者、サタンとして蔑視してきた。その一方、ユダは本当に金銭のためにイエスを裏切ったのかどうかを疑問視する神学者、聖職者が出てきた。2017年に出版された統一「新改訳聖書」の中ではユダは「裏切り者」といった表現だけではなく、「引き渡した者」という言葉でも呼ばれ出してきた。

「イスカリオテのユダ」の名誉回復が秘かに進められているのだろうか。イスカリオテとは、「イス」(Isch)は人(男)を意味し、「カリオテ」(Kariot)は地域名だ。すなわち、カリオテ出身の男という意味になる。南部パレスチナ地方のカリオテはイエスが福音を伝えていたガリラヤまでには地理的に離れている。にもかかわらず、「イスカリオテのユダ」はイエスの群れを求めてやってきたわけだ。

イエスの他の弟子たちは主にガリラヤ出身で漁師などをしていたが、「イスカリオテのユダ」は知識人だったのではないかという説から、過激な政治活動をしていた青年だったという推測も聞かれる(ウィーン大学の聖書学者マルチン・シュトヴァサー氏)。

問題は、イエスを探し求めてきたユダがなぜイエスを裏切ったのか、という犯行動機の解明だ。多くの神学者、聖書学者がこれまで考えてきたが、満足できる答えを見出すのは難しい。なぜならば、ユダに関する記述があっても、その犯行動機については何も言及されていないからだ。

ウィーン大学のヴォルフガング・トライトラー教授は、「ユダは裏切り者ではなく、大きな希望を抱いてきた使徒だった。イエスの12弟子の中でユダは最も強くイエスに期待していた使徒だった。具体的には、異教徒から解放してくれるメシアだと考えていた。だから、イエスを引き渡すことでイエス自身にメシアであることを公表させたいと考えていたのではないか」と解釈している。

「ユダ自身、イエスを十字架の死に導くことで人類に救済をもたらした」とか、「神の人類救済の計画に操られたマリオネットだった」といった見方もある。イエスの「十字架救済論」の立場からいえば、ユダがイエスを引き渡し、イエスが十字架上で殺害されなかったならば、救済は成就できない。その観点からいえば、ユダはイエスの十字架救済を実現させた立派な功労者ということになる。決して「裏切り者」ではないわけだ。にもかかわらず、「イスカリオテ・ユダ」は常に罵倒され、忌み嫌われてきた。

新約聖書の福音書ではユダの言動に関する個所で微妙な温度差がある。すなわち、福音書ではイエス像ばかりかユダ像も歴史的事実に基づいた記述というより、書き手の信仰告白、その解釈が綴られているからだ。

「ルカによる福音書」ではイエス自身がユダに「人の子を裏切るのか」と言っている。「ヨハネによる福音書」では、ユダは金銭欲が強く、イエスの弟子の中では金を管理し、詐欺師のような人物を示唆している。そのユダ像は厳しい。例えば、「ヨハネによる福音書」13章2節には「悪魔は既にシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」と記述している。いずれにしても、新約聖書のユダ像は時間と共に、重く、暗いイメージが付きまとっていった。

看過できない点は、福音書の反ユダ的な記述が教会の反ユダヤ主義のルーツともなってきたことだろう。キリスト教会では、聖週間にユダの像や絵を燃やすといった儀式すら存在する。

ただし、第2バチカン公会議(1962~65年)後、ユダ像のイメージが次第に明るくなっていった。カトリック教会が宗派を超えた対話を推進させてきたこともあって、ユダの名誉回復も静かだが進められていったからだろう。イエスは最初のキリスト者であり、同時に、ユダヤ人だった、という事実を強調することで、人間ユダに対する見直しの道も開かれてきたわけだ。

ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年4月21日の記事に一部加筆。