米中協調の平成時代の終わり、米中衝突の令和時代の始まり(特別寄稿)

渡瀬 裕哉

平成時代は東アジア地域における中国の台頭、そして日本の衰退を象徴する時代であったと言えるだろう。

1995年の日米自動車交渉ではカンターUSTR代表と橋本通産相の“竹刀対決”が話題に(江田憲司氏ブログより:編集部)

このような変化は米国の対日・対中政策の変化によって事実上もたらされたものだ。ソ連との軍事競争に勝利しつつあった世界唯一の超大国・米国にとって、第二次世界大戦の敗戦から立ち直った経済大国・日本は米国の事実上のライバルとなった。

プラザ合意を経ても国際的な競争力を有し続けた日本に対し、米国は日米構造協議を通じて不要・不急の政府拡大策を押し付けた。日本国内では総額430兆円にも及ぶ巨額の公共事業を約束し、国内における資本・人材・時間が浪費されたことで、中央からの財政移転に依存する地方の惨状を生み出すことになった。

日本からの製造業の海外移転は進展する一方、日本国内の既得権は保持・拡大し、巨額の不良債権処理やほぼ手つかずの産業構造改革などの後遺症により、2000年代の日本の政治・経済が苦しみ続ける原因の1つとなった。

一方、中国は1990年代~2000年代にかけて大幅な経済成長を経験してきた。世界の工場として高度経済成長を経ることで、米国の識者らの中には中国が経済成長とともに民主化するのではないかという夢を見ている人々もいた。

中国は実際に経済成長を実現したものの、政治的には野心的な意図をうまく隠す振る舞いに終始してきた。そのため、米国は中国の脅威を軽視し、ソ連・日本というライバルを打倒したことにより、2000年代は中東民主化を夢見た対テロ戦争という不毛な戦争に突入した。米国民主党政権はもちろん、ブッシュ親子のような共和党主流派にとって中国は金の卵と認識されており、平成時代の米国は中国に対して一貫して甘い認識と対応に終始し続けてきたと言える。

IT産業や研究所が集積する北京郊外の中関村(Wikipedia)

中国に対して一貫して脅威認識を持ち続けてきた勢力は共和党保守派である。彼らは共産主義体制が中国に残存すること、民主的な価値観を持つ台湾への支援、そして近年では中国のサイバーセキュリティ・知的財産権問題について問題意識を持ち続けてきた。

しかし、残念なことに共和党保守派は平成時代においては米国大統領職を奪うことはできず、連邦議会を支配した彼らの問題意識の大半も中東・ロシアに割かれてきたため、対中問題はその一部において警鐘を鳴らされてきたに過ぎなかった。

また、共和党保守派の声はイデオロギー的な問題意識を背景としており、現実の軍事・経済上の脅威としての中国の脅威認識は米国民全般においては足りなかったと言える。

2016年大統領選挙を制したトランプ大統領は共和党保守派が創り出した大統領である。平成時代の最終局面で東アジア情勢を大きく変更する可能性を持つ政権が誕生した瞬間だった。

Gage Skidmore / flickr、Wikipedia

特にトランプ大統領を押す共和党保守派が北朝鮮問題を絡めて対中懸念を強く主張したことでようやく中国問題が認識されるようになってきた。筆者が米国において一部の安全保障関係者以外の共和党関係者から対中脅威論を頻繁に耳にするようになったのはこの時からだった。

ソ連と日本の2つの特徴を兼ね揃えた軍事大国兼経済大国である中国に対し、トランプ大統領は軍拡競争と貿易戦争の2つの力を行使して対抗し始めている。

国防費増加、INF条約脱退、宇宙軍創設などの軍拡対応、外国投資委員会(CFIUS)による投資制限、一路一帯政策への対抗などは対ソ連政策、米中貿易協議(構造問題を含む)や知的財産権政策などは対日政策を踏襲したものだと言えるだろう。その上で、ペンス副大統領ら宗教保守派は中国国内における宗教弾圧・人権問題(ウイグル・チベット・キリスト教など)、対ロシア・対中東で見せた制裁などの問題提起を始めている。

つまり、ソ連、日本、中東(キリスト教に不寛容という意味)で用いられた米国の政策ツールの全てが中国に向かい始めていると言えるだろう。中国は軍拡・景気対策による債務増加に苦しめられるとともに、技術覇権競争に制限がかけられて、なおかつ国内の政情不安への対応に真剣を尖らせることになる。

これはトランプ大統領個人の意思ではなく、共和党保守派全体の意向と言えるため、令和時代の幕開けとともに両国の対立は不可逆的なプロセスに入ったと言える。今年は台湾関係法40周年、来年は台湾総統選挙ということもあり、今後更に東アジア地域、つまり対中政策に米国のリソースは振り向けられることになるだろう。

米中の戦いはどちらに軍配が上がるかは予断を許さないものだ。平成時代は米中協調時代であったが、令和時代は米中対立の時代となっていくことは必然的なことだ。東アジアを巡る著しい時代の変化の中で、日本は自らがどのように生き残っていくべきなのか。平和ボケした議論を前時代のものとし、現実の中での難しいかじ取りを要求されている。

国際政治アナリスト、早稲田大学招聘研究員