ルール遵守で馬鹿になった金融機関

金融庁は片仮名が好きで、規則をルール、規則の主旨、即ち規則の根底を支える原理原則をプリンシプルと呼んでいるが、今の金融規制は、行政手法として、ルールからプリンシプルへの転換を明確にしている。

転換の背景には、ルール遵守の徹底が深刻な弊害をもたらすという事実があった。弊害というのは、表層的なルール遵守の徹底のもとでも、実質的に顧客の利益に反することが横行し得るということであり、更に悪いことには、ルール遵守の事実が顧客の利益に反する行為を正当化してしまうことである。

金融機関だけを問題にするのは不公平で、ルール遵守が自己正当化や免責要件として利用されるのは、今日、広くみられる現象である。例えば、飲酒可能年齢を規制することは、国民の厚生に関する高度な政策判断だが、販売時の年齢確認というルールは、現実の機能としては、国民の利益のためではなく、販売店の免責要件の確保のためになされている。

しかし、金融については、より事態は深刻であった。金融庁が次々と作る新しいルールに対して、いかに早く効率的に遵守態勢を構築するかという受け身の行動様式が習性化した結果、金融機関の能動的で自律的な思考能力が失われてしまったのである。ルール遵守の表層的定着が完璧になる半面、ルールを支えるプリンシプルについて深く考える能力はなくなってしまったのである。

金融庁にとって、ルール策定は政策課題の実現のための道具にすぎない。金融庁は、ルール策定を通じて、金融機関に対して、様々な課題を提示し、その解決を求めてきたのである。ところが、金融機関は、金融庁が示す経営課題を本質的に考え抜くのではなく、全て簡単に実行できるルール遵守として対応してきたわけである。

その結果、金融機関の行動形態として、金融庁の施策に対して、最低限、これだけのことをやっておけば十分であろうと考え、その最低限のことを内部ルール化して遵守態勢を作り、それで課題を達成した気分になってきたのである。

ルール遵守の弊害は、要約すれば、最低限のことをしておけば責任を問われないという道徳意識の頽廃、最低限のことしかできない能力の貧困、最低限のことしかしようとしない怠慢の横行、この三点に尽きる。この弊害を除くために、ルールからプリンシプルへの金融行政の転換が必要だったのである。

さて、金融機関は、金融行政の転換によって、馬鹿の状態を脱したかというと、まだまだ賢者への道のりは遠いようである。

 

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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