財布の紐を固くし、金を出すのを惜しんでいると、「あいつはケチだ」といわれるが、気前よく出し過ぎると今度は「あいつは金を持っていたのにこれまで何もおごってくれなかった」と受け取られ、やはり「ケチな人間」として批判される。
ここで「中庸の徳」を説くつもりはない。何を言っているのかといえば、パリのノートルダム大聖堂の火災で屋根が焼け落ち、尖塔が燃え落ちたことが分かると、フランスの金持ちが次々と億単位の巨額の寄付金をノートルダム大聖堂の再建のために出したというニュースが流れてきたことだ。火災後数日内で10億ユーロ以上が集まったというから凄い。フランス人は戦争には弱いが、気前は飛びぬけていい国民だろうか。
「流石にフランスは文化国家と呼ばれるだけはある」と感心していたら、どうやらそうとは言えないようだ。フランス国民はケチとは思わないが、巨額の寄付をするお金もちに称賛の声ではなく批判の声が飛び出しているのだ。
曰く、「社会の貧困救済には目をつぶってきた」、「わが国の金持ちは福祉や公益のためには金を出すのを渋るが、メディアが注目し、税金対策にもなると分かれば、巨額の金を寄付する」と指摘、数百万ユーロを寄付する資産家に対して当てこすりではなく、本当に憤慨しているのだ。
カトリック教国のフランスで20日、同国各地で「黄色いベスト運動」の反政府デモが再び行われ、現地からの情報ではフランス全土で2万8000人がデモに参加。デモの一部は暴動化し、逮捕者も出たという。デモの暴動対策のために約6万人の警察隊が動員された。
昨年11月からマクロン大統領の政策に反対し路上で抗議デモをしてきた「黄色いベスト運動」はよりによって復活祭の前日、暴れたのだ。彼らは「使い道がないほどの巨額の金を持っていながら、労働者の生活改善のためには寄付しない」、「俺たちは数ユーロでも節約しながら生きているのに、資産家たちは俺たちの生涯稼げる資金を簡単に寄付していい顔をしている」、「人間より建物を大切にするのか」と叫んだ。
ノートルダム大聖堂再建の寄付活動を通じて、「持てる者」と「そうでない者」の経済格差が鮮明に浮上してきたのだ。簡単にいえば、「富の不平等な配分」だ。古くて新しい社会問題だ。ノートルダム大聖堂の再建を「5年で完了する」と豪語したマクロン大統領自身は資産家たちの気前のいい寄付に大歓迎で、税対策に配慮する考えも語ってきたが、予想外の展開に頭を痛めている。
マクロン大統領は火災時、現場に飛び、燃える大聖堂を目撃し、「私の全ての同胞と同様、今晩私たちの一部が焼けているのを見て悲しい」と述べ、火災の翌日(16日)、「ノートルダム大聖堂をパリ夏季五輪が開催される2024年までに再建する」と表明し、専門家からは「非現実的で、人気取り政策」という声が出ている有様だ。
人は常に批判し、時には妬む。特に、相手が持っていて、自分にないことが分かった場合だ。寄付という行為は本来慈善活動だが、その点では変わらない。
米のウォール街で起きた「われわれは99%」運動はグロバリゼーションを批判し、資本主義社会の貧富の格差を糾弾し、話題を呼んだ。国の総資産の大部分を僅かな資産家によって占められているという事実が報じられると、「われわれは搾取されている」といった声がリベラルな米国社会でも飛び出した。久しく葬られたと思っていたマルクスが蘇ってきた(「『労働』が神の祝福となる日」2017年7月27日参考)。
ノートルダム大聖堂再建を支援する資産家の寄付活動とそれを批判する労働者の声をニューヨーク・タイムズ紙も報じていた。労働者の批判は決して途方もない言いがかりではないが、資産家が盗人ともいえない。彼らも汗を流して資産を蓄えたのだろう。正当な報酬というべきかもしれない。ただ、経済格差が拡大し、その事実が今回のようにあからさまに報じられると、世間は黙っていない。抑えていた不満や怒りが飛び出す。
カインはアベルを、エソウはヤコブを妬ましく思って殺そうとした。前者は実際殺してしまった。富む者への嫉妬は今始まった疾患ではなく、人類歴史が始まって以来の病だ。嫉妬心を抑えることができる人は聖人か諦観者だけかもしれない。ただし、嫉妬心はいつも良くないとはいえない。持てる者のようになりたいと努力することはいい。いい意味で競争心も出てくる。
話をノートルダム大聖堂の再建に戻す。資産家が再建に必要な金を提供してくれるというのだから、その気前良さを受け入れようではないか。大聖堂が再建され、世界から多くの観光客が集まれば、国家収入も増え、国民の貧困対策や教育問題などに利用できる。効果が出てくるまで少し時間はあるが、国民にも恩恵が届く。労働者だけではない。社会が良くなれば、資産家も嬉しいはずだ。両者はウィンウィンだ。
コラムで書くのは簡単だが、確かに実行は難しいテーマだ。試行錯誤しながら、人間は嫉妬心をコントロールするだけでなく成長のバネに転換する訓練が必要だろうう。忘れてはならない点は、「持てる者」、「愛されている者」の責任はそうではない者よりもやはり大きいということだ。
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「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年4月23日の記事に一部加筆。