人は様々なコミュニティに所属し、生きている。このコミュニティはリアル、バーチャルそれぞれあり。接触頻度、優先度などが高いものもあれば、低いものもある。
同世代の作家、平野啓一郎さんは「分人」というコンセプトを提示して話題になった、そういえば。私たちは、様々な「自分」を生きている。
一緒に住んでいる家族、私と配偶者のそれぞれの実家に住む家族、親族、中学、高校時代の仲間、大学時代の仲間(主にサークル、ゼミ、語学クラス、その他様々なつながりの仲間)、会社員になってからの各社・各時代の上司・同僚・後輩や部下、現在の職場、仕事をしている(してきた)編集者、仕事や趣味や様々なつながりの仲間、幽霊役員をしている町内会、同じマンションの方、保育園の先生や他の保護者、その他地域の皆様など、様々なつながりの中で生きている。リアルなつながりを中心に書いたが、ネット上でのつながりもあり。
それぞれのつながりの中で、私という人物の位置づけは違う。自然体であり続けている方だが、振る舞い方は違う。大学の教員っぽくないと言われ続けているが、とはいえ、学生や保護者の前では最低限のラインでは先生らしく振る舞っている。一応、著者であり、専門家なので、執筆・講演・取材対応などの際にはそのように振る舞う。保育園では娘のパパとして、振る舞っており。他の子供たちにも「○○ちゃんのパパだ」と声をかけられる。
ただ、たまに、そのあり方が揺らぐこともある。それぞれのコミュニティでの位置づけや振る舞い方が、だ。改元にはさめている私だけど、お陰様で平成の総括や、令和の展望関連でコメント依頼を求められる機会も多々あり。先日もNHKで、平成に進んだ格差についてコメントした。
令和の時代になり、テレビの影響力は減るのではないかと言われているが、朝のNHKのニュースの影響力は絶大で・・・。特に趣味や地域のつながりからの反響が大きく。いつも車のメンテナンスでお世話になっている整備工場の方や、地元のパン屋さんに素性がバレるの巻。コミュニティの中での自分のあり方が揺らいでしまった。
ただ、そこでいきなり態度が変わるのも、変えられるのも違う話であり。まるで別人28号であるかのように「ああ、出ていましたね。見てくれてありがとうございます」くらいの態度で振る舞うの巻。向こうも変わらず接してくれて感謝。
というわけで、コミュニティの中での自分をそれぞれ自然体にすること、コミュニティごとのギャップをへらすことを意識しつつ、これからも自然体で生きていきますかね。茶髪の長髪にライダースで、下町のショッピングモールのフードコートで娘と食事する私も、メディアでコメントしたり教壇に立ったりする私も、それぞれ私なのだ。うん。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2019年4月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。