天皇はいつから「天皇」になったのか?

宇山 卓栄

「天皇」の称号が使われる以前

新天皇が即位され、新しい御代が幕開けた。天皇はなぜ「天皇」というのか。「天皇」という称号は7世紀頃に使われはじめたとされる。

NHK「日本人と天皇」番組サイトより:編集部

「天皇」の称号が使われる以前、日本の君主は「オオキミ(またはオホキミ)」や「スメラミコト(またはスメラギ、スベラギ、スベロギ)」と呼ばれていた。「オオキミ」は一般的に普及していた呼び方で、後の時代に、「大王」の漢字が当てられるようになり、史書にも記される。

一方、「スメラミコト」は格式ばった言い方で、「オオキミ」の神性を特別に表す呼び方である。謎めいて儀式的な響きのする「スメラミコト」が何を意味するのか、はっきりとしたことはわかっていないが、いくつかの解釈がある。

その代表的なものが、「スメラ」は「統(す)べる」、つまり統治者を意味するという説である。この他に、神聖さを表す「澄める」が転訛したとする説もある。「ミコト」の意味ははっきりしており、神聖な貴人を表す。「スメラギ」、「スベラギ」、「スベロギ」は「スメラ」と「キミ」の合成語ではないかと見る説がある。

中国皇帝に対抗する称号

では、「オオキミ(大王)」や「スメラミコト」が「天皇」となったのはなぜか。608年、聖徳太子が中国の隋の皇帝・煬帝に送った国書で「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す)」と記されていた。『日本書紀』に、この国書についての記述があり、これが主要な史書の中で、「天皇」の称号使用が確認される最初の例とされる。

遣隋使の小野妹子が遥々、海を渡り、隋の都・大興城(現在の西安)へ赴いた。その時、携えていた国書に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無しや、云々)」という有名な節がある。

この国書に対し、煬帝から返書があり、さらに、その煬帝の返書に対する返書として、日本から送られたのが、上記の「東天皇敬白西皇帝」の国書である。

日本が自らの君主を中国側が認めた「王」とせず、「天子」や「天皇」と明記して、国書を差し出したことには大きな意味がある。

当時、日本は中国から「倭」と呼ばれ、その君主の称号として「倭王」を授けられていた。中国では、皇帝が最高の君臨者で、その下に複数の王たちがいた。中国の王は皇帝によって、領土を与えられた地方の諸侯に過ぎない。つまり、「倭王」は中国皇帝に臣従する諸侯の一人という位置付けだった。朝鮮半島諸国の王なども同様の扱いだった。

7世紀、日本は中央集権体制を整備し、国力を急速に増大させていく状況で、中国に対する臣従を意味する「王」の称号を避け、「天皇」という新しい君主号をつくり出した。皇国として、当時の中国に互角に対抗しようという大いなる気概が日本にはあった。

高宗による「天皇」の称号化

しかし、これには異説もある。608年、聖徳太子が煬帝に送った国書で「天皇」が使われていたと『日本書紀』にあるが、これは後追いで創作されたとする説である。唐の第三代皇帝高宗が突如、「天皇」を名乗った。なぜ、そう名乗ったのかは謎とされているが、一つの解釈として、「皇帝」を越える最高存在として、「天皇」を捉えた。「天皇(てんこう)」は道教の最高神であり、高宗は道教に強く影響を受けていた。

高宗が名乗った「天皇」に触発され、日本も「天皇」を使いはじめた。近著『令和日本史記- 126代の天皇と日本人の歩み』を刊行された八幡和郎氏は高宗の在位期間の649~683年と「天皇」称号の確立時期がきれいに一致すると主張されておられる。

『日本書紀』が後から、唐の高宗に倣い、国書原文で使われた称号等へ「天皇」と書き換えたという可能性は極めて高い(つまり、「天皇」後追い説)。逆に、日本が608年の段階で「天皇」を使っていたのに、その後に高宗が「天皇」を名乗ったという可能性は極めて低い。

中国の神話では、「天皇(てんこう)」・「地皇(ちこう)」・「人皇(じんこう)」の3人の伝説の皇が世界を創造したとされる。その中でも「天皇(てんこう)」は最高神で、道教でも、「天皇(てんこう)」が崇められている。高宗はこれを称号に使った。その頃、日本では、最高祭司としての「スメラミコト」に匹敵する漢語表現(つまり当時の国際言語)を探し求め、宗教的かつ神話的な意味を持つ「天皇」がふさわしいと選定された。そこに、高宗の影響がなかったとは言えないのである。

「テンノウ」の普及と定着

いずれにしても、7世紀後半の第40代天武天皇の時代には、「天皇」の称号が一般的に使われようになり、孫の文武天皇の時代の702年に公布された大宝律令で、「天皇」の称号の使用が法的に定められた。

しかし、「天皇」という称号は中国などに向けての対外用の書き言葉であり、依然、日本国内では、天皇を「オオキミ(またはオホキミ)」や「スメラミコト(またはスメラギ、スベラギ、スベロギ)」と呼んでいたと考えられる。当時、天皇を「テンノウ」と呼ぶことはなかっただろう。「天皇」はあくまで文書上の称号であった。

その後、天皇は御所を表す「内裏(ダイリ)」と呼ばれたり、御所の門を表す「御門(ミカド)」と呼ばれた。「ミカド」に「帝」の漢字を当てるのもやはり、中国を意識した対外向けの表現であったと考えられる。

「テンノウ」という呼び名は明治時代以降、一般化した。日本国内では、普段から使われていた呼び名ではなかったが、文書上の表記である「天皇」をその呼び方とも一致させなければならないとする明治政府の意向もあり、天皇を「テンノウ」と呼ぶ慣習が一気に普及し、定着したと考えられる。これらは明治政府が天皇を中心とする新国家体制を整備する段階で起きた変化だった。