「男系天皇」が古代からの伝統だというのは迷信である

池田 信夫

これはアーカイブ記事です。自民党総裁選挙をめぐって「男系の皇統」をめぐる議論が出ているので、2019年5月5日の記事を修正して再掲します。

歴代天皇(時計回りに今上天皇、上皇、明治、大正、昭和)=宮内庁サイト、Wikipedia:編集部

新天皇の即位で、皇室典範に定める「男系男子」の皇位継承者は3人になり、「皇室の危機」が論じられている。普通に考えれば皇室典範を改正して愛子様が継承できるようにすればいいのだが、それに反対する人々がいる。その顔ぶれは、かつて「生前退位」に反対した人々と重なっている。

男系男子は権威と権力を天皇に集中する制度

それを正当化する議論として「皇位継承が男系男子であるのは権威と権力を分ける日本独特のシステムだから、平清盛も足利義満も徳川家康も皆、天皇になる野望を遂げることはできなかった」というのは論理が破綻している。

男系男子は「権威と権力を分ける日本独特のシステム」ではなく、権威と権力が一体化した中国から輸入したものだ。それは皇帝の血統を受け継がない男子を後継者から排除し、王家の分裂抗争を防いで権威と権力の一体性を守る制度として、それなりの合理性があった。

しかし日本の皇室には中世以降は実権がなくなったので、血統の純粋性を守る意味はなく、皇室にも本気で男系を守る気はなかった。明治時代の皇室典範まで、皇位継承には明文の定めがなかった。

皇統譜では例外なく男系で継承したことになっているが、それは1925年につくられた系図である。現実にはDNAが天皇家の「男系」ではない天皇がかなりいたと思われる。それは日本に宦官がいなかったことでも明らかだ。男系の皇統は、神武天皇と同じく神話にすぎないのだ。

むしろ皇室の特徴は、徹底的な権威と権力の分離である。平清盛にも徳川家康にも「天皇になる野望」はなかった。なろうと思えば(中国のように)天皇家を廃して自分が天皇になればよかったが、日本では天皇家の権威と将軍の権力が分離していたので、なる必要がなかったのだ。

天皇を男系男子と定める皇室典範は明治憲法と一体で制定され、天皇を権威と権力の一体化した主権者とするもので、古来の大王のようにゆるやかな支配とはまったく違う近代的な絶対王権だった。ところが実態は薩長の藩閥政府が決めたので意思決定は混乱し、天皇を政治利用する人々が日本を破滅に導いた。

だから権威と権力を天皇に集中する男系男子には合理的根拠がない。「伝統に合理的根拠は必要ない」という人がいるが、それは伝統でさえない。「男系の皇統」なるものは、明治政府が古代に遡及して作り出した迷信なのだ。

「男系の皇統」は日本書紀の創作したフィクション

古代の天皇は双系(男系・女系の混在)だった。それは天照大神をみれば明らかだ。男系が伝統だったら、女神を神話の主人公にすることはありえない。山折哲雄氏によれば、雄略・欽明・皇極・天智・天武・持統天皇には性別の記述もない。天皇はそういう身体性を超える「記号」だったからだ。

神武天皇以来、男系で継承された「大和朝廷」というのは、日本書紀の創作したフィクションである。それは西暦720年ごろから昔の歴史をさかのぼり、天皇家の支配を正統化するために書かれた物語である。それを信じる人がいてもかまわないが、政策の根拠にはならない。

最近の実証的な歴史学では、日本書紀の記述と他の史料を照合し、600年ごろまではヤマト王権とも呼ぶべき複数の王家が並立していたと推定される。そのリーダーが大王(おおきみ)だったので、同一の皇統は存在しない。もちろん男系とは限らない。

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