自民党総裁選挙をめぐってまた「男系の皇統」をめぐる議論が出ているので、2019年5月5日の記事を修正して再掲します。
皇室典範に定める「男系男子」の皇位継承者は3人になり、「皇室の危機」が論じられている。普通に考えれば皇室典範を改正して愛子様が継承すればいいのだが、それに反対する人々がいる。その顔ぶれは、かつて「生前退位」に反対した人々と重なっている。
「男系男子」は中国の皇帝の伝統
それを正当化する議論として「男系男子は権威と権力を分ける日本独特のシステムだから、足利尊氏も織田信長も天皇になれなかった」というのは誤りである。男系男子は権威と権力を一体化する中国から輸入したものだ。
しかし日本の天皇には中世以降は実権がなくなったので、血統には意味がなかった。平安時代には天皇は藤原家に婿入りし、実質的に女系で相続された。明治時代まで皇位継承には明文の定めがなかった。男系男子を定めたのは、明治22年に皇室典範を書いた井上毅である。
皇統譜では例外なく男系で継承したことになっているが、それは宮内省が1925年に歴史を遡及してつくった系図である。多くの天皇の謚(おくりな)はこのときつけられ、現実にはDNAが天皇家ではない天皇がかなりいたと思われる。それは日本に宦官がいなかったことでも明らかだ。
日本の特徴は、天皇の権威と将軍の権力の分離である。天皇が武力をもったのは天武天皇までで、それ以降は形骸化した。足利尊氏も織田信長も天皇を廃位して自分がなろうと思えばなれたが、ならなかった。天皇は実権のない飾りだから、なる必要がなかったのだ。
天皇を男系男子と定める皇室典範は明治憲法と一体で制定され、天皇を権威と権力の一体化した主権者とするもので、古代とはまったく違う近代的な絶対王制とするものだった。だが実権は薩長の藩閥政府にあったので意思決定は混乱し、天皇を政治利用する人々が日本を破滅に導いた。
「男系の皇統」は井上毅の創作したフィクション
古代の王権は双系(男系・女系の混在)だった。それはアマテラスをみれば明らかだ。男系が伝統だったら、女神を祖先に設定することはありえない。しかし『日本書紀』は邪馬台国や卑弥呼にはふれず、崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト=神武天皇)を始祖とする系図を書いている。
天皇家の系図がたどれるのは継体からだが、『日本書紀』は継体を垂仁天皇の女系の8世の子孫とし、持統天皇の女系の孫が文武天皇、元明天皇の女系の娘が元正天皇、元正天皇の女系の甥が聖武天皇と書いている。このように女帝は男系で継承する中継ぎではなく、持統の時代までは女系(あるいは双系)で継承するのが本筋だった。
ところが『日本書紀』は過去のオオキミにすべて「**天皇」という謚をつけ、あたかも男系で継承したかのように系図を書き換えた。継体は応神の5世の孫とも書かれ、実際には血縁がない別の王家だったと思われる。
このころはまだ複数の王家が併存していたが、平城京に遷都して持統の孫の文武天皇が即位すると、藤原不比等は娘をその妻とし、その子が聖武天皇となった。彼は不比等の家で育てられ、藤原氏の娘を妻にした。こうして代々の天皇は藤原家の「入り婿」のような状態になり、その意思決定は藤原氏がおこなった。
要するに男系の皇統というのは、井上毅の創作したフィクションである。その根拠は『日本書紀』だが、それは古代の王家に関する雑多な伝説を天武天皇の立場から整理し、オオキミを「天皇」と名づけてその支配を正統化するために書かれた神話である。
神話を信じるのは個人の自由だが、それを根拠に皇位継承を決めるのは、大統領を天地創造の神話にもとづいて決めるような後進国の政治である。日本は経済的には先進国とはいえなくなったが、文化的には先進国であってほしい。