韓国に、天皇が謝らない理由を教えてあげよう

高橋 克己

韓国の文喜相国会議長が慰安婦問題で先代の天皇陛下に謝罪を求めたことが報じられ、安倍総理が「甚だしく不適切な内容を含むもので極めて遺憾」と抗議するなど日本中が猛反発、それに対し、文議長が「10年前から行ってきた持論だ」と述べてから早や3カ月が経つ。

文喜相氏サイト、宮内庁サイトより:編集部

持論は持つべきだ。が、事実誤認や認識不足は頂けない。異論にも耳を傾け、間違ったら素直に引っ込め訂正が必要だ。事は天皇陛下が絡むし、令和を迎えたこともあるので、本稿では我が国の天皇陛下がなぜ謝らないのかについて筆者の持論を述べて、韓国の理解に供したい。

陛下が謝らない理由、それは明治以後の日本が立憲国家だからだ。即ち、戦前の昭和天皇は大日本帝国憲法(明治憲法)の、そして戦後の昭和天皇と先代の天皇(現上皇)は新憲法の制約下にあったということだ。その上で両憲法下における天皇の権能を理解しないと今回の文議長のような頓珍漢な持論を持ってしまう。

昭和天皇と明治天皇(Wikipedia:編集部)

明治憲法下の天皇の権能を理解する格好の事例は聖断だ。陛下の意思を政治的判断に反映した事例と言い換えても良い。話の都合上、聖断ではないが日清戦争の事例を先ず引いて、明治天皇の立憲君主制の理解について書く。小室直樹は『昭和天皇の悲劇』(光文社、1989年刊)でこう書く。(・・は省略の意)

明治天皇はあくまで抵抗を続けられた。が・・軍人も出先の外交官も戦争を求めて煮えたぎっていた。・・陸軍は牙山の清軍を攻撃し、漢陽の王宮を占領した。海軍は豊島沖で清国軍艦を攻撃した。だが.・・明治天皇は戦闘開始を許可なさらなかった。伊藤首相に攻撃中止命令を発信せよと命じ・・首相は・・陸奥外相に伝えたが…外相はこの命令を握りつぶした。・・天皇は・・お怒りのあまり開戦を皇祖と皇孝に報告するための勅使ご差遣をなさらなかった。とてつもなく異例のことである。

しかし既に・・大日本帝国憲法が発布されていた。大日本帝国は律令国家以来の専制国家であることをやめて立憲国家に変身していた。・・内閣は閣議において開戦を決定した。伊藤首相は直ちに参内して、この閣議決定を明治天皇に上奏した。明治天皇は宸念と正反対の閣議決定を裁可したもうた。・・この前例によって大日本帝国憲法第55条「国務大臣は天皇を輔弼し、其の責に任ず」の解釈は確定した。

次は昭和天皇。これも聖断でなく満洲某重大事件といわれた1928年に満洲軍閥張作霖を関東軍参謀河本大作大佐が爆殺した、田中義一内閣の時の事件から述べる。小室はその動機をこう書く。

張作霖を追って蒋介石の軍隊が満洲に侵入するかも知れない。そうなると日本の満洲支配は脅かされる虞があった。加えて張作霖は既に日本が気に食わないことを幾つとなくしていた。もはや張作霖は日本の傀儡ではなくなっていた。張作霖敗走のチャンスに彼を殺して一気に満洲問題を解決しよう。これが関東軍の肚だった。

事件直後から関東軍首謀説が中国や欧米諸国で流れ、また国会での中野正剛らの激しい追及などもあって天皇は深く憂慮された。そして後に『昭和天皇独白録』で次のように述べる対応をなさった。

田中総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で・・あるから、河本を処罰し、支那に対して遺憾の意を表するつもりであると云う。・・然るに田中がこの処罰問題を閣議に付した処、・・日本の立場上、処罰は不得策だと云う議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなって終わった。そこで田中は再び私の処にやって来て、この問題はうやむやに葬りたいと云う事であった。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った。

その結果、「田中首相は、恐懼おくところを知らず、内閣は総辞職した。そして間もなく死んだ」(小室前掲書)。昭和天皇はその時の心境を「独白録」でこう述べている。

こんな云い方をしたのは私の若気の至りであると今では考えている・・この事件があって以来、私は内閣の上奏する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることを決心した

松本健一は『畏るべき昭和天皇』(毎日新聞社、2007年刊)で、「(ご決心は)元老の西園寺公望が田中首相に辞表を迫ったことは立憲君主制からの逸脱だ、と咎めたことが大きく関わっていた」と書く。そうかも知れない。が、明治天皇を尊敬なさった昭和天皇が日清戦争の件をご存知ないはずがない、と筆者は思う。かくてこの時以降、昭和天皇は立憲君主制下のそのお立場をより一層強くご自覚なさった。

次は最初の聖断が下った二・二六事件(昭和11年・1936年)だ。天皇を誠忠する青年将校が農村の非常な窮乏を憂えて、天皇が信任する重臣らを奸佞として排除しようとした、実に妙な事件だ。軍幹部が対応に苦慮してオタオタする間に、斎藤内相、高橋蔵相、渡辺教育総監そして岡田首相(後に生存が判明)らが殺されて政府が消滅した

河原敏明は『天皇裕仁の昭和史』(文春文庫、1986年刊)でこの時の天皇の反応をこう書く。

川島陸軍大臣がおそるおそる「将校らの行為は不祥事ではあるが、陛下と国家への至情から発したものであり、その心情を理解して頂きたい旨」を奏上すると、天皇は色をなして、「朕が股肱の老臣を殺す。この如き凶暴の将校ら、その精神において何の恕すべきものありや・・速やかに暴徒を鎮圧せよ」と厳命した。

8年前に立憲君主であることを強く自覚したはずの昭和天皇がなぜ暴徒鎮圧を厳命したのか、という疑問が湧く。が、「天皇を輔弼すべき内閣が崩壊していた」ので自らご聖断を下したのだと小室はいう。確かに「天皇を輔弼」する首相、内相、蔵相らが殺されていたのでは憲法第55条は機能しない

最後は1941年の開戦時には聖断がなぜ下されず、1945年8月のポツダム宣言受諾を巡る御前会議ではなぜ聖断が下されたかだ。昭和天皇は「独白録」でそのことを次のように明確に述べている。

開戦の際、東条内閣の決定を私が裁可したのは、立憲政治下に於ける立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異なる所はない。終戦の際は、しかし乍ら、之とは事情を異にし、朝議がまとまらず、鈴木(貫太郎)総理は議論分裂のままその裁断を私の求めたのである。

以上、明治憲法下でさえ聖断は政府が機能しなかった二度のみ、斯くも天皇の権能は限定されていた。いわんや新憲法下においてをや。よって昭和天皇に戦争責任などないし、まして「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である天皇(現上皇)にあるはずもない。立憲国家を自任する韓国ならこの論は理解できようと思う。

最後に小室が崩御直後に上梓した前掲書の天皇陛下の謝罪についての付言を引く(これは日本国民限定)。

昭和天皇が戦後、地方巡幸に出られた時、人々は言った。「せめて陛下の口からごめんなさいの一言が聞きたかった」。陛下が国民に語り掛けているお言葉を聞けばその気持ちがおありになることは明らかだ。しかし陛下は最後までそれを具体的には口にされなかった。その理由を今こそあげよう。・・もし陛下が「ごめんなさい」と言ったら戦争中陛下のためにと叫んで死にたもうた英霊に何とする。考えてみよ、その瞬間、日本を支えてきた秩序は全て崩壊する。・・その後に今日の大国日本の千分の一の姿も見ることはできなかったであろう。・・陛下のとった行動はもはやキリスト並の奇跡としか言いようがない。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。