言論空間を規制する「磁場」
大日本帝国は言論の自由が限られた形でしか認められなかった。検閲に代表される政府による各種規制措置が認められており、もちろんこの規制措置の運用実績は時期によって異なるが、とにかく政府が言論・表現の自由を規制できる権限を有していたのだ。
こうした規制はよく知られているしイメージしやすいものである。一方でイメージしにくい大日本帝国に身を置いていなければわからない「目に見えない規制」もあった。それは「国体」による規制である。
現在で「国体」と言えばほとんどの人が「国民体育大会」を思い浮かべるだろうが、大日本帝国では「国体」は最も重要な価値だった。
今日風に言えば「国の根本」とか「国の基本」といった意味があり、「国体」を否定することは絶対に許されなかった。
「国体」は帝国憲法に明記されていない言葉であり、帝国憲法制定前から存在していた言葉だったからある意味、帝国憲法より価値があった。
悪名高い治安維持法が守ろうしたものも「国体」であり、治安立法に明記されたことによって「国体」は禍々しいものになった。
「国体ニ反スル」ことはいかなる立場の者も許されず、「国体」という言葉は独特の磁場を発し、大日本帝国の言論空間に「枠」を設け言論内容を特定の方向に誘導するにまで至った。大日本帝国を瓦解させたアジア・太平洋戦争の原因は様々なものが提示されているが「国体による言論規制」も小さくない要因だったに違いない。
こうした目に見ない「言論空間を規制する磁場」は戦後日本ではなくなったのだろうか。
「流行語」としての立憲主義
2014年に安倍内閣が集団的自衛権の限定行使を認める憲法解釈の変更を決定して以来、「立憲主義」という言葉は急激に使用され始めた。
池田信夫氏が調査したところ「朝日新聞データベースで調べると、立憲主義という言葉が使われた記事は1985年以降で2221件出てくるが、そのうち1931件が2014年以降である。」と言う。
「立憲主義」はまさに安倍内閣が呼び起こしたものと言えるし、この数値の急激な変化を見る限り「立憲主義」は単なる「流行語」と言っても決して言い過ぎではないだろう。
周知のとおり「立憲主義を守れ」は安保法制反対の一大スローガンとなり国会を包囲する大規模デモを誕生させ、遂には政党すら誕生させた。それは言うまでもなく「立憲民主党」であり、同党は「立憲主義を守る」ことを強く主張している。
「立憲主義」はまさに巨大な「力」を有しているし、それは現在でもなお侮れない次元である。
それにしても立憲民主党は「立憲主義」の重要性を繰り返し説いているが、それほど重要な「立憲主義」の議論が2014年前は低調だったことをどうとらえているのだろうか。
「立憲主義が守られた社会」はどのようなものか
立憲民主党は「立憲主義を守る」ことを強く主張しているが、同党が目指す「立憲主義が守られた社会」とはどんな社会なのだろうか。
立憲民主党の代表である枝野幸男氏の発言から読み取ってみよう。
枝野氏の「立憲主義」への評価として特徴的なのは「当たり前」とか「当然」といった言葉を用いて「立憲主義」を自明視しているところである。
「立憲主義はあまりにも当たり前すぎて学校では教えなくなってしまった」(立憲民主党サイト)
「この立憲主義は近代社会であれば、当然の前提です。」(産経新聞)
立憲民主党は綱領に「熟議の民主主義」を掲げているが、「当たり前」とか「当然」という表現は「熟議」に繋がるものなのだろうか。いや、繋がらないだろう。
「熟議」とは「当たり前」とか「当然」を意識しない、むしろ多少の議論の脱線を許容する中から生まれるものである。
「当たり前」とか「当然」という表現は発言者に余計な緊張を与え言論を委縮させるだけであり、大日本帝国の「国体」と同じく言論空間に好ましくない磁場を発生させるだけである。
枝野氏の関心が高い安保法制で言えば「安保法制は立憲主義に反する」で議論を終わらせるのではなく「立憲主義に反してでも平和を守る。だから安保法制は必要である」という次元まで議論を広げることが「熟議」である。
また、多数決をけん制する目的で「民主主義」が語られていることも特徴的である
「民主主義と言えば多数決で物事を決めることだと思っている人もいるかもしれないが、民主主義と多数決はイコールではない」(立憲民主党サイト)
という発言はそれを明瞭に表している。
しかしどうだろうか。「民主主義と多数決はイコールではない」という主張が幅を効かせるようになったら誰も多数派形成の努力をしなくなるのではないか。
これは政治家の視点に立った方が理解しやすい。民主主義国家では政治家が死に物狂いで多数派形成を行うのが常だが「民主主義と多数決はイコールではない」という考えが主流になった場合、政治家は多数派形成を怠り立憲民主党のように「立憲主義を守る」の類の活動に重点を置いてしまうのではないか。
多数派形成は多大な労力を要するものだが、一方で政策の成熟化が見込まれ国民も政策を受容しやすくなる。だから「多数派形成の努力」とは政治家と国民双方の成熟をただすものと言えよう。
しかし「立憲主義を守る」の類の活動は実に簡単である。
立憲民主党を見てもわかるように「あなたの主張は立憲主義に反する」と指摘するだけで成立する。
意地の悪い政治家ならば「立憲主義に反する」という言葉を政局次元でしか使わないかもしれないし、その可能性の方が高いと言えよう。
多数派形成を目指す民主主義は政策を競い合う「正の競争」を招くが「民主主義と多数決はイコールではない」という民主主義は相手にレッテルを貼り攻撃することが主眼となる「負の競争」を招くだけである。
しかし、こう整理してみると実に興味深い。
立憲民主党が目指す「立憲主義が守られた社会」とは言論も限られた範囲内でしか行われず、政治家も常に「立憲主義違反」を意識して活動しなくてはならないし国政選挙があるときは候補者同士が「あの候補者の主張は立憲主義に反している」と罵り合う光景が普通になる社会である。
とても健全な社会とは言えない。
立憲民主党が唱える「立憲主義」はもはや大日本帝国の「国体」と同次元になっており、同党が政権与党になった場合、そこに自由などない。
「立憲主義を守る」ことで息苦しく殺伐とした社会が成立するならば立憲主義など守らなくて良い。
立憲主義を破壊したのは誰か
立憲民主党に期待されていることは「日本の立憲民主主義は大変な危機にある」(産経新聞)と煽ることではなく「立憲主義のインフレ」を鎮静化することである。
現在の「立憲主義」は本来の意味と価値を失い「国体」化していると言わざるを得ず、日本の平和と自由をあらぬ方向に導きかねない。
こう考えると安保法制可決以降幅を効かしている「立憲主義は破壊された」という表現は誤りではない。ただ破壊したのは安倍政権ではない。立憲主義を破壊したのは護憲派であり、そして何よりも法律家共同体の長たる憲法学者である。
これらを踏まえて我々は平和と自由を守る議論を混乱させているのは誰なのか、平和と自由を守るためにはどのような議論が必要なのか改めて検証してみるべきだろう。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員