41回目の誕生日に寄せて:親の脛をかじり尽くした私

写真は幼少期のさとしくん(私)です(^ ^)

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昨日、無事に41回目の誕生日を迎えることが出来ました。これもひとえに皆様のお陰です。改めて感謝申し上げます。

40歳の1年は、呼吸困難で死にかけ、気管切開をして人工呼吸器ユーザーになり、呼吸が安定したという意味においては、ALS患者として不惑の年となりました。

この節目の時に、未来への約束を書き記したいと思います。

私は大学に7年行っています。大学4年+留年1年+大学院2年で、挙げ句の果てに就職先は、名もなきベンチャー企業でした。それにもかかわらず、親は7年間の学費と仕送りを出し続けてくれました。弟への仕送りも重なり、経済的にはかなり大変だったと思います。

つまり私は、高校までの18年と合わせて25年親の脛をかじって生きており、自分の足で社会に立った期間は、16年に過ぎません。

しかし、私にとっての7年はかけがえのない時間でした。妻と出会い、生涯の友人と出会い、好きな合唱に心置きなく打ち込み、サービス業こそが自分の天職だと気づくなど、今の自分の人生観や生きる環境を形成した7年間でした。

だから我が子を授かった時、私はこう誓いました。『私が親の脛をかじった分だけ、私の脛を子供にかじらせよう。子供のやりたいことを、経済的理由で断念させない親で有ろう。それが親への恩返しになる。』

会社においても、先輩の脛をかじった分を後輩にかじらせることが、会社の健全な成長につながると思います。

平均寿命から考えたら、私の人生まだまだ折り返し地点くらいです。今後、我が子にこの脛を差し出し、未来を創る若者に可能な限り自分の経験を伝えることを約して、節目のブログの筆を置きたいと思います。

恩田聖敬


この記事は、株式会社まんまる笑店代表取締役社長、恩田聖敬氏(岐阜フットボールクラブ前社長)のブログ「片道切符社長のその後の目的地は? 」2019年5月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。