池袋老人暴走事件の遺族の方の会見があった。事件から一カ月たち、「生き地獄」と描写した状況を伝えてくれた。
会見を開いた遺族の方の勇気に感銘を受ける。悲しいことだが、こうした現実が、この事件の不条理を物語っている。こうした現実も知られていくべきだ。敬意を表する。
俳優の風見しんごさんのように、継続して事故と向き合って伝え続けてる方もいらっしゃる。だが突然の事故に遭遇した一般の方には、こうした方法もとれない場合が多いだろう。
裁判も終わらないどころか、うっかりすると始まらないうちに、加害者のほうはこの世界から去る。それなのに被害者のほうが取り残され続ける。数多くの戦争、犯罪、災害、事故の不条理の度合いに程度の違いがあるとは言えないが、老人暴走事件にわれわれが受ける不条理感は、半端ではない(過去記事『暴走老人に対する抑止力の確保は、日本の国益』)。
大津市の園児殺傷事件の際の記者会見のあり方をめぐって、マスコミ批判が巻き起こった。「国民の知る権利」なるものを持ち出す識者の方々もいた。正しくは「伝える義務」のことだろう。権利あるところに、義務がある。マスコミは権利行使の代行者というよりも、社会的に意義あることを伝える「義務」の遂行者のはずだ。「国民」などといった集合的な他人の権利の代行を言うのであれば、マスコミの「伝える義務」をどう継続的に果たしていくか、メディア関係者には、そういう正しい「義務」の遂行方法を、考えていってほしい。
少子高齢化社会では、統計的には、相当程度の蓋然性で、類似の事故が増えていくのだ。池袋暴走事件の一度の報道で、日本全国の老人たちが、事故を起こさない人間に生まれ変わっていく、などいうことは、決してない。継続的に「伝える義務」を果たす方法を考えていかなければならない。
遺族の方々は、人生の意味を見出すために苦闘していく。もちろん遺族の方々の迷惑になることについて「知る権利」も「伝える義務」もない。しかし遺族の方にとって意味があることについては、今後も継続して伝えていく「義務」が、事件を報道した者には、今後も存在し続けるのではないか。
篠田 英朗(しのだ ひであき)東京外国語大学総合国際学研究院教授
1968年生まれ。専門は国際関係論。早稲田大学卒業後、