闘う市民、出版関係者諸君!私は、一物書きとして、重大な決意のもと、極限まで腐敗しきった日本社会にこの檄を叩きつける。妻子ある者として、一瞬だけ自分の保身を考えたが、今、ここで主張しなければ、日本の出版業界の存亡に関わる事態だと直覚し、勇躍決起した次第である。久々に満腔の怒りを叩きつけ、自己主張させて頂く。
幻冬舎から出版された百田尚樹氏の『日本国紀』について、コピペ疑惑など一連の問題について批判した津原泰水氏が、同社から文庫本を出せなくなり、その件について見城徹氏が津原氏の部数について暴露した騒動についてだ。見城徹氏はTweetを削除し、謝罪している。
同社の編集者(特に、業界でも有名な超絶優秀・美人編集者の竹村優子氏 同世代なのだが、なぜ、同じ年月生きていてこれだけ能力の差があるのか、人間としての深みがあるのかと、思い知らされている)からはいつも面白い本をおくってもらっている。企画が通っていたのに、上手く書き上げることができなかったという不義理もしている。この場を借りてお詫びしたい。
さらに、同社が発行している『GOETHE』をdマガジンで読むことが私のささやかな生きがいなのである。同誌のセレブ感、著名人たちと見城徹氏との交流の様子を楽しみに読んでいる。最新号も、私自身、堀江貴文ことホリエモンについて何も知らないことを思い知らされ、大変に勉強をさせて頂いた。昨年の9月号の「いま、GUCCIがヤバい」という特集では、全身PRADAできめた一橋大学教授が登場するなど、なかなか攻めていることもやっていたが、こういう脇の甘さも含めて、私は『GOETHE』が大好きだ。いつか同誌に出ることは私の夢の一つである。
そんな幻冬舎の見城徹氏についてコメントすることは、著者生命について関わるような、しかも忘恩的な行為であることは強く認識している。ただ、ルビコン川を渡るほどの決意で、私は主張したいと思う。
出版社の経営者たるもの、部数にこだわることは当然である。ただ、それはあくまで社内の会議や著者との打ち合わせで言うべきことであって、公にするものではない。
そもそも、これは出版社としての役割、責任を放棄したようなものである。「部数」は著者が決めるものではない。「発行部数」に関しては、何冊刷るのかを決めるのは出版社だ(ごくたまに、○万部以上の案件は受けないという著者も存在するが)。「実売部数」に関しても、作品が優れているかどうかや、著者の力(知名度や実績、売る努力)だけで決まるわけではない。売れている本でも、在庫リスクを考え、増刷がかからなかったり、かかってもわずかな部数ということもある(それでもいまやありがたいのだが)。
同社や見城徹氏は出版界の常識を破るような仕掛けを行ってきたわけだが、ここでも常識はずれということか。瞞着の反著者性が暴き出されたのだ。著者への犠牲強要の大攻撃をはねのけなければならない。創作活動疎外の究極的深まりが露呈しているのである。
もっとも、あくまで私見ではあるが、幻冬舎は売る努力をしている出版社だとこれまで認識してきた。オウンドメディアを通じた著者インタビューの紹介、イベントの開催など、話題作りには取り組んできたし、同社の営業は地道に現場を回っている。
10年前、勝間和代氏の本が売れに売れていた頃、彼女は「書く努力の5倍、売る努力をする」と発言した。彼女が注目を集める一方、バッシングを受けていた頃でもあり、また言葉が独り歩きしたこともあり賛否を呼んだ。ただ10年前、「出版不況」が叫ばれつつも、それでもまだ書店の数も初版部数も今よりも多かった時代に、彼女がこう言っていたことを振り返りたい。当時から、出版社も売る努力が足りなかったのではないかと。
著者としては出版社がどうであれ売る努力が必要であるとは認識している。若手著者を見ると、POPづくり、書店まわり、イベントの企画など、涙ぐましい努力をしている。私もいまだにそのようなことに取り組んでいる。イベントで「お願いです、娘のおむつ代がかかっているんです。明日の糧食のためにも、本日、本を買ってください。」と頭を下げ、本を売ることもある。
ただ、改めてこう言いたい。「意見」ではなく「事実」としてである。「発行部数」にしろ「実売部数」にしろ、「部数」は「著者」「だけ」では決まらないのだ。
もっとも、津原氏やこの問題について声をあげた著者や出版関係者を批判するわけではないが、常に著者というものは値踏みされているのだということを確認しておきたい。この人は書く力があるのか、売れているのか、売れそうなのか、と。たとえ見城徹氏が部数を暴露しなくても、日々、書店やAmazonのランキング、各種レビューによって著者は実力があるのか、売れているのかと評価される。ウェブメディアへの寄稿だってそうである。前述したように「部数」は著者「だけ」では決まらない。ただ、その部数も含めて著者というのは常に問われる存在ではある。
書店も減った。初版部数も減った。増刷する部数も。ものを書くということを「ライスワーク」にするのが難しい(まったくできないわけではなく、よっぽど売れるか、やり方を変えなくてはならない)時代である。あくまで「ライクワーク」「ライフワーク」とするべきではないかと感じることもある。
ただ、それでも私は打席に立つ。これまで12年間、40冊以上の本を書き、50万部刷って頂いた。たとえ部数が少なくとも、出版の可能性を信じている。だから、今日もペンを握り、キーボードを叩く。
やはりここまで来たら日本の作家は「幻冬舎とは仕事をしない」ということを宣言すべきだと思います。僕はもともと幻冬舎と仕事をする気がないし、先方も頼む気がないでしょうから「勝手なことをいうな」というお立場の作家もいるでしょうけれど、それでも。 https://t.co/Xknu0tTf5M
— 内田樹 (@levinassien) 2019年5月16日
そういえば、内田樹氏が幻冬舎の仕事を辞退するように呼びかけていた。率直に、見苦しい。この幻冬舎批判の言辞は、あまりにも白々しいではないか。笑止千万の妄言であり、闘争の歪曲である。おやめなさい。
問題の切り分けをせず、ドサクサにまぎれてなんでもかんでも便乗して反対するのは、シニア左翼知識人の悪しき点である。新世代の左翼知識人として、私はNOと言いたい。いつか内田樹に引導を渡せるよう、左翼修行にますます取り組まなくてはならないと思った次第だ。
あくまで批判するべきは、見城徹氏の一連の言動である。幻冬舎にも優れた編集者はいるし、良い作品もあるのだ。休刊になった『新潮45』にもすぐれた論考、連載があったように。竹村優子編集作品と、『GOETHE』が読めなくなると、私も一市民として困るのだ。
平成風に言うとこうなる。見城徹や『日本国紀』を嫌いになっても、幻冬舎を嫌いにならないでください、と。
というわけで、この一連の騒動について、魂を戦闘的に高揚させたのだが、物書きとしての自分がどう生きるかということを考える機会ともなった。著者であるというのは、ロックであるということだと、旗幟を鮮明にしたのだ。
私の本も夜露死苦。初版4000部だったぞ。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2019年5月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。