日本維新の会に所属していた丸山穂高衆院議員が北方領土の元住民に対して「北方領土は戦争しなければ取り返せないのではないか」などと発言した件について、当該議員の辞職を求める声が高まっている。
確かに、筆者も当該議員の発言は故郷を奪われた元住民に対して配慮を欠く以前に、不当に奪われた北方領土を「交渉で取り返す」努力を放棄した「失言」であると認識する(※元住民に対する無配慮については、当該議員も自覚の上で後から謝罪している)。
しかしながら、「戦争」を口にしただけで辞職にまで追い込むのは明らかに過剰反応であり、戦争もまた「外交の一手段」であることの認識を欠いていると言わざるを得ない。
言うまでもなく、古来「外交の敗北」と言われる通り、戦争とはあらゆる交渉に行き詰まった国家による窮余の策であり、そこまで追い込まれた時点で敗北が待っているのは、先の大戦でも得られた重要な教訓である。
よって、戦争を極力避けたい事情はどこの国でも同じだが、外交交渉はきれいごとだけで進むものでもなく、時として背景に武力≒戦争のリスクをちらつかせて優位に立とうと躍起になっているのは、何も「同盟国」アメリカだけではない。
日本人は何かと「戦争ではなく、話し合いで解決」することを訴え、筆者も大いに賛同するところではあるが、その「話し合い」を平和裏に終わらせるためにこそ、「武力≒戦争の可能性」を忘れてはならないのだ。
なぜなら「破っても何の罰則も制裁もない約束やルールなど、誰も守らない」のが国際常識だからである(そんなものを馬鹿正直に守るのは日本人くらいのもので、個人間ならともかく政府が国家間でそんなことをすれば、際限なくつけ込まれるだけである)。
世に「いつも微笑みを絶やさず、右手で握手しながら、左手に棍棒を握りしめる」ということわざがあるが、まさに外交交渉を絶妙に表しており、互いの棍棒を恐れてこそ、微笑みと握手は保たれる。
だから、軽々に「戦争」などと口にすべきではないものの、常に戦争を回避しながらも相手国には戦争のリスクを意識させ、自分たちもいざ有事の覚悟を忘れず交渉に臨むのが、政府の務めである。
ロシア(旧ソ連)による不法占領から74年、今や北方領土の返還は容易ではなく、ましてやタダとは行くまい。
交渉次第ではロシアを怒らせ、戦争にまで発展してしまうリスクもゼロではないが、それでも日本は「敗戦の混乱に乗じた火事場泥棒」を許すべきではないし、国際社会に対して弱肉強食の帝国主義を峻拒する大義を訴え続けるべきである。
対話の門戸は広く開け放ちながらも、かかる火の粉は払わねばならない。
十七 正道を踏み国を以て斃(たお)るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順する時は、軽侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受くるに至らん
これは西郷隆盛の政治思想をまとめた『西郷南洲遺訓』の一説であるが、事なかれ主義で相手の非道を見ぬふりして媚びへつらい、問題を先送りしたところで、両者の関係は友好どころか悪化するばかりで、ついには隷属に至ることを指摘しており、まさに戦後の日露関係ひいては日本外交を予言しているようである。
また、西郷はこうも続ける。
十八 ……(略)……戦の一字を恐れ、政府の本務を墜(おと)しなば、商法支配所と申すものにて更に政府には非ざる也
日々の暮らしに精一杯な庶民ならともかく、政治家ともあろう者が「戦争」と聞いただけで思考停止してしまうようでは、目先の損得に駆け回る商人と何も変わらない。
何があっても国民を守り、国家を護る。日本政府にはその気概をもって我が国の平和と独立を守り抜き、奪われた領土を取り戻すべく、常に戦争の覚悟と備えを忘れず、あらゆるアプローチからロシアと粘り強く交渉を続けられるよう期待する次第である。
Si vis pacem, para bellum(汝平和を欲さば、戦への備えをせよ:ラテン語の警句)
【追記】
本稿はあくまでも日露間交渉による領土返還を主張するものであり、軽々に「戦争」を口にする丸山議員の失言を擁護するものではなく、また失言以外の不行跡を理由とする辞職要求を否定するものでもない。
—
角田 晶生(つのだ あきお)フリーライター。
1980年、神奈川・鎌倉生まれ。海上自衛官の任期満了後、2010年より現職。防衛・人材育成・歴史・地域文化などをメインに、職業やボランティア経験に基づく寄稿多数。