トランプ大統領の攻勢でまるで元気がない様子の習主席だが、本年3月に開かれた全国人民代表大会では「中華民族の偉大なる復興に最も近づいた」と演説して話題になった。
しかし、中華民族といわれたところで、漠としたイメージしか湧かない日本人が筆者も含めて多いと思う。そこで本稿では中華民族とは何か、その成立ちと歴史を紐解いてみたい。
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結論からいってしまえば、中国人とは、紀元前に中華あるいは中原と呼ばれる黄河中流域の洛陽盆地で興亡を繰り返していた四夷、すなわち「東夷、西戎、南蛮、北狄などの諸種族が接触・混合して形成された都市の住民であり、それは文化上の概念」で、「人種としてはこれらの異民族が混血した雑種」である。
「中国という国家も20世紀に至るまでは存在しなかった。秦や唐、元や明や清という王朝が興亡を繰り返していただけ」であり、「もともと中国では、国家とは国と家、公的生活と私生活、を意味する対語」に過ぎなかったので、中国人や中華民族なる概念もまた存在しなかった。
「中国」の空間である都市を囲み、「四夷」の世界と区別する城壁の内側に住みついて、「戸籍に名を登録し、市場の組合員となって組合費を払い、労役に服し、非常時に召集に応じて武器を取り、市民の職種に応じて規定された服装をすれば」いかなる異民族の出身でも中国人になれた。
では、古代にはなかった「漢族」という概念がいつ生じたかといえば、それは日清戦争での敗北以降。明治以降の日本で正統とされた「日本人は全て天照大神の子孫という思想」を中国人が真似、「漢族は全て神話の最初の帝王、黄帝の血を引く子孫である」とし、「中国は黄帝の子孫たる中華民族の国」だという観念が発生した。
「現在の中国の国民の大多数は漢族と分類され」、その他のいわゆる少数民族はウイグル族、チベット族、満洲族、チワン族、回族、イ族、苗族などに分類されている。それは「いかにも漢族という名の単一民族が存在しているかのようだが、それは少数民族との対象の上でそう見えるだけ」である。
上記は、著名な歴史学者でわけてもモンゴル史・満洲史の泰山北斗である岡田英弘が「読む年表 中国史」(ワック)で述べている説だ。表題の答えはこれだけでも十分だが、折角なので同書で筆者が目から鱗を落とした中華民族形成史を辛亥革命まで駆け足で見てみる。
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岡田は中国の本当の「起源は秦の始皇帝の統一」だから、その「歴史は2200年余りの長さ」しかないとし、それを「歴史以前の中国」、「第一期」、「第二期」、「第三期」、「中国以降」と大きく5期に区分する。
歴史以前の中国
秦の始皇帝による天下統一以前の時代には、中原の周りを、四夷、すなわち農耕・漁労を生業とする東夷(初代夏王朝)、山地の焼畑農耕民である南蛮、草原の遊牧民の西戎(3代周王朝、4代秦王朝)、そして北の狩猟民である北狄(2代殷王朝)が囲んでいた。
周が滅び春秋戦国時代になるが、その戦国七雄にしても、周の後裔で後に韓、魏、趙の三国に分離した晋は西戎、周の軍師だった羌族の呂尚(太公望)を始祖とする斉も西戎、後に始皇帝が出た秦も西戎、そして項羽の叔父の将軍項梁のいた楚は南蛮といった具合に全てが四夷だった(燕は不詳)。
古代王朝の夏、殷、周や最初の統一王朝である秦にしても全て四夷だった訳だが、後の王朝を見ても前221年の秦から1911年に清が倒れるまでの約2200年間で、漢の420年(前202年~220年)と明の280年(1368年~1644年)の約700年間を除く1500年間は、以下に見るように悉く四夷の王朝だった。
第一期
秦の始皇帝の父荘襄王は前249年に東周を亡ぼし秦王となった。その子の政は、前221年までに前述の韓、魏、趙、楚、燕の6国を悉く亡ぼし、黄河と長江の中下流域に挟まれたいわゆる中原の都市をすべて征服して統一を果たし、始皇帝と号した。
始皇帝の業績は様々あるが、岡田によれば、例えば焚書は単に言論弾圧のために民間の書物を没収して焼却してその私有を禁じたのではなく、文字の統一が目的だったという。すなわち漢字3千3百だけ公認し、字体(篆書)と発音を統一して唯一のコミュニケーション手段としたのだと。
秦を亡ぼした漢(前202年~)は漢族最初の王朝だ。が、始祖の劉邦は盗賊だった。とはいえ日本語の意味と違い「飢えや世の中に対する不平不満から生まれた、実力行使を伴う民間武装集団」を指す。武帝(在位前141年~前87年)は華北・華中を直轄化し、秦滅亡後の混乱をほぼ治めるに至った。
この頃に黄河中下流域の都市化した地域が広く「中国」と呼ばれるようになった。漢が漢族の王朝とされる由縁だ。が、まだ「天下」と「中国」とは同義でなく、皇帝の勢力が及ぶ範囲の「天下」の中には都市化した「中国」地域と都市化していない「蛮夷」の地域が入り混じっていた。
漢の歴代皇帝は「朝礼」を重要視した。群臣や外国使節は暗いうちから宮城の庭、すなわち「朝廷」に集まり、皇帝は精進潔斎して神を祀る。皇帝がお出ましになると群臣は号令で一斉に「三跪九叩頭」する。外国使節は手土産「貢」を捧げる。これが「朝貢」だ。
が、手土産が高価な品物である必要はなく、朝貢したからといって皇帝の臣下になったり、中国の支配下に入ったりした訳でもなかった。朝貢は国家間の関係ではなく、個人としての君主が個人としての皇帝に友好を表明するだけのものだったという。
漢の時代に司馬遷が「史記」を編んだ。「史記」は神話の黄帝に始まる中国皇帝の正統を述べたもので、天下は皇帝と共に不変であるとの歴史観をつくり出した。つまり司馬遷は「史記」において、武帝こそ五帝(黄帝以下、堯・舜までの神話皇帝)の正統を受け継ぐ伝統の天子であるとした。
220年に後漢が滅亡して三国時代(~304年)、五胡十六国(~439年)そして南北朝時代(~589年)に入るが、隋までは駆け足で行く。
三国志で知られる三国時代は一つのはずだった正統が魏・呉・蜀の三つに分裂した時代だ。相次ぐ戦いで減少した人口を補うべく魏の文帝は「中国」に人を集め、周辺に遊牧民の匈奴、鮮卑、羯、氐、羌の五胡を傭兵として移住させた。
魏から正統を継いだ晋の時代に五胡が勢力を増し、316年に匈奴が晋を亡ぼす。318年に晋の皇族が東晋を建てたが、420年以降、宋(~479年)、南斉(~502年)、梁(~557年)そして陳(~589年)に取って代わられる。これを南朝と呼ぶが、それらはわずかに生き残った漢族の長江中下流域の亡命政権に過ぎない。
他方、439年に中原である華北で鮮卑が北魏を建て、南北朝時代が始まる。北魏は534年に東西に分裂し、東魏は北斉に、西魏は北周に取って代わられる。北周は北斉を倒すが、その北周は581年に隋に滅ぼされる。南朝の陳を併合した隋の文帝は中国を統一した。が、隋も含めた北朝はいずれもが鮮卑、すなわち漢族でない。
617年に隋の唐公で鮮卑系の李淵(後の高祖)と息子の李世民(後の太宗)が突厥(トルコ)の始畢カガンと同盟して挙兵し、翌618年に隋を亡ぼして唐を建てた。太宗は東西に遠征を繰り返し、621年に洛陽、628年には黄河湾曲部の梁師都を陥落して中国を統一した。
630年には同盟していた東突厥(トルコ第一帝国)をも滅ぼし、北アジアの遊牧民の首領たちは太宗を自分たち共通の君主に選挙し、「世界皇帝」の称号を贈った。これは中国の「皇帝」と中央ユーラシアの遊牧帝国の「カガン」を一身に兼ねるという画期的な出来事だった。
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(中)は、唐の滅亡から、五代十国時代、宋朝、元の台頭前を取り上げます。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。