日経新聞によると、経済産業省はフランスと共同開発している高速炉ASTRIDの開発を断念したようだ。こうなることは高速増殖炉(FBR)の原型炉「もんじゅ」を廃炉にしたときからわかっていた。
原子力開発の60年は、人類史を変える壮大な夢とその挫折の歴史だった。1954年にアメリカ原子力委員会(AEC)のストラウス委員長は原子力によって「電力は測るには安すぎるエネルギーになるだろう」と予想し、1971年にシーボーグAEC委員長は「20世紀中には世界の電力のほとんどが原子力で発電されるだろう」というビジョンを語った。
彼らのビジョンは70年代までは順調に実現するように見えたが、1979年のスリーマイル島原発事故と1986年のチェルノブイリ原発事故で、世界の原子力開発は大きく後退した。
原子力産業にとってさらに本質的な問題は、核燃料サイクルの挫折だった。1977年にカーター大統領が核燃料の再処理をやめる方針に転換したため、主流になるはずだったFBRの開発が失敗に終わり、当初は過渡的な技術だった軽水炉が主流になった。
そして致命的な打撃が福島第一原発事故だった。日本は今もその打撃から立ち直れない。この挫折の最大の原因は、技術ではなく政治である。原発には、多くの国民の錯覚を誘発する特徴があるからだ。
第一の錯覚は、原爆と原発の混同である。原子力の最大の不幸は、それが原子爆弾という形でデビューしたことにある。核分裂は最初は発電技術として研究されたが、1942年にアメリカのルーズベルト大統領がマンハッタン計画を立ち上げ、それからわずか3年で広島と長崎に原爆が投下された。
原子力が短期間で実用化したのは、軍事技術として開発され、政府が研究開発投資を負担したためだが、これがその短所ともなった。科学者にとっては原子炉で核爆発が起こらないことは自明だが、ほとんどの国民にはわからない。福島事故では建屋が水素爆発しただけだったが、第一報では世界に「原発が爆発した」と報じられた。
第二の錯覚は、放射線障害の過大評価である。1954年にビキニ環礁の水爆実験で起こった第五福竜丸の事故では、船員23人が強い放射線を被曝し、無線長が死亡した。この事故は世界に放射能への恐怖を植えつけたが、無線長の死因は放射線障害ではなかった。
しかし世界のメディアが「死の灰の恐怖」を報道したため、放射線のリスクが過大評価されるようになった。福島でも低線量被曝による死亡率の増加はありえないが、今も農産物などの風評被害として大きな後遺症が残っている。
第三の錯覚は、原発事故のリスクとハザードの混同である。リスクを評価するには、1回の事故の被害(ハザード)ではなく、それに確率をかけた期待値を計算するという方法論が、多くの国民には理解できないのだ。
小泉純一郎氏が繰り返しているのもこの錯覚だが、こういう感情は人々の潜在意識に刷り込まれているので、論理的な説得で変えることはできない。感情に迎合して技術開発を止めるべきではないが、人々の錯覚を誘発しやすい技術の開発には国民の支持が得られない。
この点でFBRには難点があった。ナトリウムは水や空気にふれると、爆発的に反応して大事故に見えるのだ。フランスで運転に成功したFBR「スーパーフェニックス」も、爆発事故の多発を理由に廃炉に追い込まれた。もんじゅの事故も単なる配管系のナトリウム漏洩だったが、その対策が立てられず、最終的に廃炉に至った。
ASTRIDはナトリウム型高速炉の最後の生き残りの道だったが、その設計は従来のFBRと本質的な違いがなく、行き詰まるのは時間の問題だった。エネルギー問題の専門家として著名なバーツラフ・シュミルも「ナトリウムを使う原子炉は成功したことがなく、今後も成功する可能性はない」と断定している。
日本では1970年代以降、軽水炉からFBRへという次世代炉のロードマップが決まっていたが、残念ながらその道は閉ざされた。しかし原子力の可能性は大きく、次世代技術のオプションはナトリウム型高速炉だけではない(日立はナトリウムを使わない高速炉を開発しているようだ)。
日本の産業が化石燃料から脱却するためには原子力技術を温存することが重要だが、軍事的な核開発のできない日本では、商業利用だけの目的で新たな原子力技術を開発するコストは民間企業には重すぎる。
次世代技術の開発に財政資金を投入することは、一つの選択肢だろう。日本が原子力開発を放棄すると技術が中国に流出し、製造業がエネルギーコストで国際競争力を失うおそれが強い。長期的な成長力を維持するためにも、原子力政策の見直しが必要である。