小泉元首相の「原発ゼロ」のボルテージが、最近ますます上がっている。本書はそれをまとめたものだが、中身はそれなりに知識のあるゴーストライターが書いたらしく、事実無根のトンデモ本ではない。批判に対する反論も書かれていて、反原発派の主張の総まとめともいえる。
反原発派の弱点は「原発事故と交通事故はどう違うのか」という批判に答えられないことだ。命を守るために原発をゼロにしろというなら、自動車も飛行機もゼロにしなければならない――というと、討論番組でも反原発派はぐっと詰まるのだが、さすがに元首相は反論を用意している。
彼の論理はこうだ:まず原発事故の被害は人類の起こす事故の中で最大であり、「これほどの被害をもたらす技術は、原発を除けば核兵器しかない」という。そして彼は次のような三段論法で、原発をゼロにすべきだと証明する。
- 原発の被害は最大なので、事故は絶対に起こしてはいけない
- しかし絶対に事故の起こらない技術はない
- だから原発はゼロにすべきだ
この論理は巧妙で、1を認めると、2は自明なので、3が導けるように見える。問題は1の「原発の被害は人類の起こす事故の中で最大だ」という前提である。そうだろうか。たしかに福島第一原発事故と交通事故を比べると、原発事故のほうが1回の被害は大きい。しかし昨年の交通事故による死者は3562人。戦後の累計では63万人以上が、交通事故で死亡している。原発事故の死者は、世界全体で60人だ。
つまり長期で考えると、原発事故より交通事故の被害のほうがはるかに大きいのだ。この三段論法に従うと、絶対に事故の起こらない技術はないので、自動車もゼロにしなければならない。「自動車は原発と比較できない」というなら、毎年世界で(大気汚染で)100万人が死んでいるといわれる石炭はどうか。
小泉氏の話はリスク=被害(ハザード)×回数(確率)だということが理解できない、よくある錯覚だ。ある技術が危険かどうかは、1回の事故の被害を比較するのではなく、被害×回数で考えるのだ。特に政策を決めるときは長期のリスクを計算して、そのメリットと比較しなければならない。
しかし普通の人は彼のように、1回の被害の最大値を最小化しようと考える。これは経済学でいう「ミニマックス原理」で、進化の中では合理的である。あなたが事故で生き残る上で大事なのは、1年に何人死ぬかではなく、そのとき自分が死ぬかどうかだから、確率も平均値も関係ない。最大の被害を想定して危険を回避する恐怖は、合理的な感情なのだ。
だが政治が個人の恐怖に迎合すると、長期の政策を短期の感情で決めるポピュリズムになる。これは大統領制や住民投票など、政治と個人の距離が近いほど起こりやすい。来週からのアゴラ読書塾「感情の科学」では、こういう政治経済の問題も科学的に考えてみたい(申し込みはまだ受け付けています)。