中国の天安門事件と言ってももう若い方は知らない人も多いでしょう。1989年6月4日、民主化を求める学生は北京、天安門広場に集まり、政府軍と対峙します。そして、突如、政府軍は装甲車や戦車が武器を持たない民衆に牙をむくのです。この事件については真相はほとんど語られません。犠牲者がどれぐらいいたのか、なぜ、政府軍は民衆に立ち向かったのか、疑問だらけです。
中国ではその20数年前に文化大革命という中国版「失われた10年」を経験しています。徹底した資本主義否定と新しい社会の創生に毛沢東の妻、江青ら4人組の行き過ぎた指導、そして学生たちの暴力的行為により中国全土を破滅的状態に導きます。この歴史的事実も中国内では文献にすることすら阻まれたのですが、あまりにも多くの国民が見聞きしたこの事件の詳細な情報を得ることは今では比較的容易くなりました。
共産主義が強化され、その党内派閥の戦いが繰り広げれたのが中国の歴史と言ってもよいでしょう。天安門事件から政治的には何も変わっていない、と指摘されてますが、私からすれば1966年の文化大革命もそもそも権力闘争だったし考えれば建国である49年10月1日も国民党との戦いから生まれた結果であります。その国民党が台湾に追いやられ、今の中国と台湾の関係につながります。
そう考えていくと中国は闘争社会であり、その戦いで本来、考えなくてはいけない国民の権利や潜在的能力を引き出す、ということは二の次でありました。
この30年の中国の経済成長を見ると天安門事件で落ち込んだ成長率は91-92年ごろにV字回復し、一旦ピークを付けます。その後、90年代後半のアジア危機まで経済は低迷するものの北京五輪、上海万博という2大イベント、そしてWHOに2001年12月加盟し、中国は世界の工場という称号を手にします。この頃、日本やアメリカで衣料の価格が急落し、ファストファッションなる言葉が生まれます。
確かに国家主導的な経済回復は共産党の威信を見せつけたようにも感じます。ただ、諸外国から見れば安い人件費とそこそこの品質が魅力的だっただけで外国からの雪崩を打ったような中国進出ブームがその経済を支えたという見方もできます。
ところが海外の投資家、事業家はシビアであり、中国の人件費高騰、さらに国際ビジネス社会にそぐわないルールが中国からの撤退を促し、東南アジアなどへの進出につながります。
こうみると中国の天安門事件後の30年とは激しい経済の変動の中で一定の成長を遂げたように見えますが、それは諸外国の移り気なマネーという背景があっただけで中国とともに歩んでいくという姿勢には見えなかった気がします。欧州や豪州の一部の国家や一時の政権時代には中国様様という時期もありましたが、それは中国との経済を通じたウィンウィンの期待だけであり、政治のイデオロギーを共有したケースはほとんどありませんでした。
こう見ると中国は政治的には何も変わっておらず、国民の真意とは「逆らえない共産党」というドライな視点がずっと続いているだけのように感じます。
習近平氏は共産党支配の体制をより強固にし、自身の体制づくりにも腐心してきました。が、その間、中国経済の成長率は着実に下に向かい、体制を維持するために無理を重ねた不良債権の山がいつ崩れるのか、と戦々恐々となる日々であります。
中国大陸の権力闘争はそれこそ紀元前の時代からそれに明け暮れています。それは国家の利益ではなく、統治者の利益が主体である点においてこれほど古い体制をいまだにこれだけの強大な国家において推進しようとしているところにギャップを感じざるを得ません。
習近平氏が今思うところは何なのでしょうか?文化大革命できわどくも立場を維持した毛沢東氏、天安門事件後、南巡講話で社会主義市場経済を生み出した鄧小平氏と同じようにアメリカとの貿易戦争をこなした習近平氏という歴史に刻み込む名前への執着なのでしょうか?
私にはさほど遠くない日に中国が再び大きく変わる日もあり得るのではないか、という気がしています。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2019年6月5日の記事より転載させていただきました。