講談師の神田松之丞さんと会って、僕が思ったこと

人と会って話をするのが好きだ。これまで僕が話を聞いたひとは、軽く1万を超えていると思う。とくに若い世代の話は、とても刺激的だ。

最近、講談師の神田松之丞さんに話をうかがった。まだ30代半ばの若者だ。僕は正直、講談に格段の興味があったわけではない。むしろ、「なぜいま講談師なのか」とも思っていた。ところが、松之丞さんの人気は、たいへんなものだという。「チケットが取れない講談師」とも言われる人気で、「明治以来100年ぶりの講談ブーム到来」と巷を賑わせている。

田原氏公式写真、神田氏公式サイトより:編集部

そんな松之丞さんに会って話してみれば、これがすこぶるおもしろかった。彼が話芸に興味を持ったきっかけは、偶然、ラジオで聞いた三遊亭圓生師匠の落語だったそうだ。さらに、大学浪人時代、立川談志さんの落語を生で聞き、これで落語家を目指す決心をした。

だが、いったんは大学に入る。この理屈がおもしろい。「お客としている時代がもっと欲しかった。演者になると、演者としての立場でしかものを考えられなくなる」というのだ。19歳にして、こんなことを考えていたわけだ。

さらに、松之丞さんがすごいことがある。あれだけ憧れた落語なのに、実際に彼が選んだのは講談の世界だったのだ。「落語に比べて講談は過小評価されていて、このままでは終わる」という危機感があったという。そのころの講談は、たまに新しいお客がきても、常連客に対して、「引いてしまう」ような世界だったそうだ。

そこで松之丞さんは、「講談に必要なのは、伝統芸能を重んじる人より、野暮なやつ」だと考えた。野暮でもいいから世界を広げる、そういう講談師が欲しいと、客観的に彼は思った。おそらく、これが「客としての時代」に培った「客の視点」なのだろう。彼は講談の道に入り、そして「前座」になった。

そんな彼だが、「人に気を使う能力がない」らしく、最初は苦労したようだ。僕もテレビ局にいたとき、気がきかないADだと怒られてばかりだったから、妙に親近感を持ってしまった。

それでもあきらめずに頑張って「二ツ目」になるころ、松之丞さんはブームを起こす。なぜ、松之丞さんの講談はウケたのか、僕は率直に問うてみた。

講談は、ちょっと難しいところがあるんだ、と彼は、正直に答えてくれた。たとえば「天保の時代の物語です」と言っても、普通の人は、「天保っていつだよ」となる。だから彼は、「西暦でいうと1830年のころでございましょう。当時は、このような背景がありまして」と、さりげなく補足するようにしているのだ。

テレビの世界も同じだ。専門用語を使いたがるコメンテーターやキャスターは多い。だが、それでは視聴者はついてこない。だから僕は、出演者が専門用語を使いだすと、「それじゃわかんない」と話をさえぎるのだ。

講談の世界は、僕の知っている世界とはまったく違う。だが、共通点をいくつも見つけることができて、実におもしろいインタビューになった。

ネットやAIの時代になっても、やっぱり顔と顔を合わせ、話をするのは何ものにも代えがたい経験だ。まだまだこれからも多くの人と会い、話をしていきたい。改めてそう思った。


編集部より:このブログは「田原総一朗 公式ブログ」2019年6月8日の記事を転載させていただきました。転載を快諾いただいた田原氏、田原事務所に心より感謝いたします。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「田原総一朗 公式ブログ」をご覧ください。