朝日新聞はかつて国民にとって「鎮痛剤」だった

田村 和広

2014年5月、吉田調書を素材として朝日新聞がいつもの通り偏向キャンペーンを始めた。一方真相を知るジャーナリスト門田隆将氏は、これが誤報であることを指摘した。門田氏は、(この指摘に対して朝日から)“「法的措置を検討する」という抗議を受けている”と著書で明かしている。「誤報」の告発がよほど本質を突いていたのだろう。

朝日新聞サイトより:編集部

この指摘を嚆矢として朝日報道への疑問や批判が広がり、後に朝日新聞は慰安婦報道も含める形で誤報を認め謝罪することにつながった。これは日本の国益に大きく寄与する画期的な事件であった。恫喝的抗議に屈せず歪んだ報道を正した門田氏の勇気と功績を称えたい。

さて、その慧眼鋭い門田氏が「私には、それがどうしてもわからないのである。」と表明するのが次の疑問である。

朝日新聞が日本人を貶める目的は一体、何だろうか

これは、著書『新聞という病』(産経新聞出版)で門田氏が投げかけている疑問である。門田氏ほどのジャーナリストならば本当の解を知っているはずなので、この疑問文は、疑問文の形式を採った感嘆文であろうと思う。しかしこの問いは私が長年感じていたものと正確に相似形であったので、今回はこの問いへの一つの解をお返ししてみたい。(朝日新聞への皮肉・批難・揶揄の意図は全くない。)

なお、門田氏のおかげで朝日新聞の精読が楽しくなった。しかし副作用として『印象操作』の性質を帯びた言葉が染みついてしまった。本来論文への使用は厳禁だが、本記事に限り朝日新聞へのオマージュを込めて、敢えて使用することをお許し頂きたい。

新聞は常に「社会の木鐸」であるとは限らない理由

朝日が日本軍と日本政府を非難し続ける理由は、「社会の木鐸を目指すから」などではない。なぜなら「100%営利企業」かつ「100%社会の木鐸」は空集合だからである。簡単に言うと両立しえないからである。稀に一致することはあり得るが、継続することは不可能である。新聞の経営者ならば徳富蘇峰(正論を掲げたため新聞社の経営には苦しんだ)を知らない者はいないだろう。

つまり、報道機関といえども営利企業である限り、多くの人が聞きたがらない諫言などしていたら、簡単に消滅してしまうことは容易に想定できる。逆に、皆が聞きたい話を文章化して明示することこそが期待される役割だろう。

主な理由はかつて「鎮痛作用」があったから

朝日が日本を非難し続ける主な理由は、かつて国民にとってそれが「鎮痛剤」だったからである。鎮める必要があった痛みとは、「敗戦国の民」あるいは「家族や財産の喪失」という精神的な激痛である。その作用機序は「遺恨をぶつける相手を特定し、情動を正当化する後付けの論拠を創造し、論難の定型句を提供することで、敗戦で鬱積した不満にカタルシスを与え、負わされた責任を軽減する」という一連の精妙な構造であった。以下このメカニズムの説明をする。

日本には袋叩きしていい極悪人がいなかった

ドイツにはヒトラーがいた。イタリアにはムッソリーニがいた。しかし日本には東条英機しかいなかった。東条では、正義の「袋叩き」をするには「人類への罪」が小さすぎたのだ。ましてユダヤ人救出にも一役買っていた可能性があるなどと周知された日には、東京「裁判」を権威づける努力が水泡に帰してしまう。そこで連合国は日本を平和裏に民主化するにあたって、日本軍と日本政府を「悪党」に仕立て上げ、NHKや朝日新聞を恫喝してプロパガンダに励み、日本国政府と日本国民を「分割」統治することにした。

こうして論難対象は確定した

大日本帝国からの連続性を保つ日本国政府も「悪党の一味」とされ批難を受け続けた。新聞各紙は、かつて国民を戦争へと扇動した大きな声量(記者と輪転機)を生かして、今度は敗戦国家日本の政府を非難しつづけた。お人よしのマッカーサー元帥によって再び活動を許された社会主義・共産主義系勢力も活躍し、再び国民は踊らされ始める。

「日本軍と政府が一体となって軍国化し、アジア支配の野心に目がくらみ、無謀な戦争をしかけて国を敗戦に導き、多数の国民を死に追いやった」というストーリーが定着するのにさほど時間はかからなかった。

こうして「批難すべき悪い奴」として、日本政府が非難対象として固定化された。一連の活動からの副産物として、日本政府だけはいくら批難しても発行停止処分されないことに新聞各紙は気が付いた。尽きない泉のはずだった。

後付けの論拠の創造

悪党に仕立て上げる材料はいくらでもあった。長期間にわたる大戦争を続けてきたので、大量の破壊と人の死を伴う戦闘行為があった。やむなく戦闘に至ったこちら側の言い分を黙らせてしまえば、戦闘行為は非人道的行為へと簡単に看板を差し替えられた。星を縫い付けた「錦の御旗」を授与され感激した新聞は、マッカーサーが帰る日に「ありがとうマ元帥」と紙面を飾り報恩の誠を捧げた。

政治的要請で「歴史」を創造する国や情熱的に虚証してくれる民族の存在も、後から後からいくらでも日本を非難するための論拠を提供してくれた。それら諸国がぼんやりしている時には教科書や神社の話をレクチャーしてあげさえした。詐話師や資料を誤読する人も大いに利用した。要するに批難するための材料は切れ目なく出現し、それを論理的にストーリーだてすることは簡単だった。

批難フレーズの定型句化とキャンペーン

論理的ストーリーは、大衆に周知するには少し難しいので、簡単なキーワードやフレーズで繰り返し教え込む必要があった。そこで新聞各紙は「言葉の黒魔術」を発動し、「恣意的な名づけ」で人々の記憶に定着しやすいストーリーを創造した。例えば、自らを呪縛する日本国憲法には「平和憲法」という名称を与えた。もしこれに変更を加えようとする者が出現したら、「平和を壊すのか」という言葉の「堀と城壁」で包んで防衛した。情緒豊かな日本語で思考する国民にとって、この言葉の防御力は強大だった。

こうして新聞から与えられた立ち位置は国民にとって心地よかった。日本を批難する諸外国とやっと同じ側に、つまり「批難する側」に立ったと錯覚することができたのだ。一般的に人は、批難されることは苦しく、非難する方が楽である。新聞に繰り返し刷り込まれることで、国民自らも「自分と国は一体ではない。負けたのは自分ではなく国である。」と自己暗示をかけ続けた。こうして日本国民は、敗戦以来苛まれてきた苦しみを癒す『鎮痛剤』として、新聞の論説を毎日「服用」した。

なかでも朝日新聞は、一番の特効薬だった。

他国の悪乗りで状況は変化

粉飾されキャンペーンで広められた数々の「事実」はしかし、時間の経過に伴い徐々に真の姿を現しはじめた。信じがたい蛮行は本当にあったのか、という疑問の声は大きくなった。また、世代交代が進み戦争時には生まれていない世代が日本の多数派となっていった。この量的変化はいつしか質的変化へとつながり、大東亜戦争は日本国民にとって過去の歴史という色合いが強くなり、歴史を蒸し返す、根拠の信憑性がない請求には強い憤りを感じるようになっていた。

被害を訴え日本を非難し続ける諸外国も度を越した悪乗りをして日本国民の怒りを醸成していった。自衛隊を指向したつもりの射撃管制レーダーも、日本国民は自らに銃口が向けられたものと脳内変換した。

これらの結果、日本を非難する論調は、急速に支持を失った。紋切型の表現をすれば、朝日新聞は「梯子」を外されたのだ。

しかし組織内文化は変わらない

匿名内部暴露本『朝日新聞 日本型組織の崩壊 』(文春新書)によると朝日新聞の社員は「社内評価を異様に気にする」集団らしい。(そういう普通のことを暴露と勘違いし、嬉しそうに匿名安全地帯から仲間を批評する人を私は評価しない。)社内評価とは社内文化からは独立できず、人事権を伴う評価権限者こそが力の保有者である。

紙面の論調を決定する幹部社員たちは、数十年間「日本を監視する社会の木鐸」としての役割を演じ続けてその地位にある。しかし自らは社外の監視の目に曝されにくいため、座標軸の較正の仕方を忘れてしまう。その指揮下の記者は、どれほどずれが大きくてもこの座標軸に合わせた記事を書かざるを得ないため、署名記事でさえも陳腐化した(古くなり時代にそぐわなくなった)論調が継続されているものと考える。

社長辞任まで発展した誤報事件も、後輩たちにすればポストが空く昇進のチャンスでしかなく、水面をいくら揺らしても底に流れる企業文化はこれからも不変であろう。

最後に、朝日新聞は知力の高い人材豊富な組織である。原点の補正さえ忘れなければ大きな役割を担える高ポテンシャル集団である。若い社員の覚醒を祈る。

田村 和広 算数数学の個別指導塾「アルファ算数教室」主宰
1968年生まれ。1992年東京大学卒。証券会社勤務の後、上場企業広報部長、CFOを経て独立。