昨今、薬物依存症問題や、高齢者ドライバーなどの社会問題で、「医師の診断」という言葉を耳にする機会が多くなった。
文脈としては、「医師でもないのに病気だということにしてはならない」とか、「医師の診断がなければなにもわからない」といったように使われる。社会問題に対して様々な考え方を横切って、医師の診断があれば問題の本質が詳らかになり、因果関係も大義名分も整うことが期待されているように感じる。
しかし医療人のはしくれとして、この論調は医師に過分な期待をしているものと感じ、余分な社会コストにつながりかねないのではと感じている。
1.初診だけでわかることは限られている
依存症にしても高齢者の運動能力にしても、初診で医師がすることはチェックリストを埋めることである。これで概ねの患者の傾向を調べ、診断に基づいて治療法につなげる。
しかし、チェックリストを埋める作業は医師が行う必要があるだろうか。医師もしくは医師会が監修したチェックリストが準備できていれば、実施者は必要な教育を受けた職員で十分である。
医師の本領発揮は一人の患者に対し、一定期間の付き合いの中で、いくつかの処置を試し、効果が無かったら理由を分析して別の治療法を試し、そのやりとりの中で患者のパーソナリティまでも分析し、問題解決に導くものである。統計的な用語を使うと縦断的(経時的)なアプローチである。つまり、具体的な診断名および治療法がわかるのに数か月や数年を要することはあり得るのだ。
2.対象者が膨大である
しかし現在社会問題になっているのは、アルコールに関しては厚労省の分類でプレアルコホリズムに分類されるものや、高齢ドライバーに関するものだ。
従来型の入院治療などが必要な「(狭義の診断名としての)アルコール依存症」と比べ、社会生活を維持しながら治療可能であるプレアルコホリズムは対象人数が大きい。
高齢者ドライバーの人数に関してはいわずもがなだ。
全てのケースに関して医師が関われるわけはないし、仮に全て「医師の診断」をしていくような仕組みを作るのであれば、医師の時間単価は非常に高額なので、膨大な社会コストにつながるだろう。
こういった大人数に対して横断的(単発的)なチェックを行い、民間での互助および自助を促すか、医療機関につなげるか仕分ける仕事は、必ずしも医師が関与する必要はない。前述のとおり医師の監修したチェックリストを、訓練を受けた職員が実施するほうがコストとしては妥当性がある。
3.医療だけでは前に進めない。行政との連携を
また受診する依存症患者、高齢者ドライバーの視点からも、病院を受診するというのは即入院や病人扱いなど「社会との断絶」のリスクを連想するので、初動が遅れることもあるだろう。
これは同時に、社会的影響力の大きな政治家や芸能人に対して、医師が決定的な診断名をつけることに消極的になることとも背中合わせと考えている。病院組織と教授責任という後ろ盾のもとでカンファレンスを経て診断するならば、踏み込んだ診断をつけることも可能だろう。しかし開業医個人では、患者や周囲の命の危険が差し迫っているわけでもなければ、社会的影響のある診断を下すのは躊躇しがちになり、やはり初動の遅れにつながるのではないか。
もう一方で、民間互助グループや行政の保険センター等の窓口は決して充実しているとは思えない。現時点では病院という「既存のインフラ」に乗るのが最もコストが低いためと考えられるが、今後プレアルコホリズムや高齢者ドライバーのような大人数に対応していくには、それだけでは十分な面談時間や病状説明などにかけるリソースが不足のではないだろうか。
医療業界自体がこのような社会問題に関するニーズというのをしっかり受け止めて、必要なインフラを整えていく努力は必要だ。
しかし、医療業界はその財源の多くを国民皆保険制度に依存しており、病院の仕組みづくりに大きな影響を受けている。やりたいことがあってもなかなか出来ないのが現実である。この財源面を決めるのは厚労省であり、行政である。
私は社会問題と関連して医療への財源拡大を訴えたいのではない。前述のとおり、医師の時間単価は大きい。社会コストを抑えるために、効率的な活用を考える必要がある。
まず、行政・医療・民間それぞれで、自分たちは何が得意分野で、何をしてほしいのか、十分に対話が必要だと考えている。依存症に関しては近年著しい進捗が見られるが、まだ制度が一般化するまでに時間がかかるだろう。
医師にのみ頼りきり、その診断を権威のように考えるのではなく、多くのプレーヤーとともに、依存症患者・高齢者ドライバーといった利用者も含めて益のある、効率的な仕組みづくりが整うことが望ましいと考えている。
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中田 智之 歯学博士
専攻は歯周病学。国家資格である歯周病専門医を目指し勉強中。現在認定医。