世界一の平均寿命は生活水準の低下を伴う覚悟を

八幡 和郎

老後に2000万円の蓄えが必要という問題は、政府批判に使うテーマではあるまい。世界一の長寿命国でありたいなら、国民全体の生活水準はそれより平均寿命が低い国より下げるしかないのは当然のことであるのに、その覚悟が日本人にないのが問題だとかねてより主張してきた。そこを曖昧にしてきたのは政府だけであるまい。

写真AC:編集部

若い人が病気にかかったり、早死にすれば経済に打撃を与えるし、なんとも悲しい。しかし、そうでないなら、長生きしたいというのは、ほかのさまざまな欲望のひとつに過ぎない。個人的にも社会的にもコストをかければ長生きできる可能性は高まるが何かを犠牲にするしかないのは当然だ。

日本が世界で最高クラスの平均寿命を実現しているのは、ほかの面での国民生活や将来の世代のための経済基盤を犠牲にするという選択の結果である。とくに平成の時代は、主要国最低の経済成長と世界トップクラスの平均寿命の続伸で特徴付けられた時代であった。私が糾弾してやまない医学部への指向の強さはその象徴だ。

そして、その結果、超長寿者が珍しくない社会になった。超長寿者は昔からいた。会津藩の保科正之は90歳以上の高齢者への扶助をしたので、会津のことならなんでも大げさに誉めたい人は世界最先端の福祉施策とかいっているが、いまの100歳より少なかったから、たとえば、102歳以上は、国や地域社会でまるまる面倒見ても負担は軽微だ。

しかし、いまの社会で90歳以上は社会的に面倒みるというのはかなりの負担だ。個人でも90歳以上まで生きる、とくに夫婦いずれもというような場合に備えて現在の生活水準を維持できるライフプラン立てるなど無理である。夫婦がいずれも90歳を超えて生きる可能性は14%だそうだが、その場合に備えて資産を持つのは馬鹿げている。

どう考えても、これまでの政策体系のなかで対処するなんて無理なのである。ではどうするべきか。

まずは、少子化対策への抜本的な傾斜である。それは経済的にも価値観においてもそうでなくてはならない。子供をつくるかどうかは個人の自由などと呑気なこといってるが、つくれるのにつくらないのは、少なくとも子供をつくることが社会への最大の貢献であることは明確にすべきだろう。子供が増えれば超高齢者の面倒もみられる。

それから、医療はその重点を平均寿命を大きく下回るような年齢で死亡するとか重度の障害にならないようにするためには、全面的な公的援助を行う一方、それ以外は、公的には基礎的な医療は安価で受けられる一方、高コスト医療は自己負担にするしかあるまい。

世界の平均寿命をみると、スペイン、イタリアとかいった高度医療対策が優れているとも見えない国の平均寿命がけっこう高いし、キューバもアメリカとあまり違わない。高コスト医療への公的な貢献を減らしても悲惨なことにはならないのである。

あとは、給付条件があまりうるさくない高齢者用の生活保護制度を年齢別に、最低限度なにが必要か検討して構築し国民に示すことと、自己負担で一種の長寿保険のようなかたちであらかじめ任意の積み立てをしたり、不動産を公的な抵当に入れるわかりやすい制度を設けることか。

そうしたものは、国が制度運用を保証する一方、利回り的にはそれほど有利なものでなくてもいいと思う。そうでないと、金持ち優遇策になってしまう。

やや暴論のように感じられる人もおられようが、暴論といわれないような提案は現実には役に立たない提案にしかなるまいからあえて書いてみた。