香港問題:サッチャー元首相 vs.富坂聰氏の紙上討論

香港返還を鄧小平と交渉したサッチャー英首相は1996年に『サッチャー回顧録』を上梓し、12頁を「香港」に割いた。6月21日のiRONNAに載った富坂聰氏の論考には、この交渉に関する両国の姿勢について『回顧録』の異論とも読める記述がある。

サッチャー英元首相と富坂聰氏(Wikipedia、ツイッターより:編集部)

本稿では富坂論考と『回顧録』を基に、1982〜84年に両国がどのような姿勢で香港の中国返還に取り組んだかを紙上討論風にまとめてみた。なお、趣旨に影響しない範囲で両方の記述の一部を捨象した。(以下、太字は筆者)

「一国二制度」

富坂:「一国二制度」は1979年に中国共産党が対台湾政策を従来の武力解放から平和統一へ転換する過程で生まれた考え方。あくまで中国自身の「軟化」の結果「与えた」制度だが、香港の人々にとっては自らが獲得した「不可侵」な権利として認識され、彼我の認識は出発点からズレている

サッチャー:「一国両制」の考えは台湾に対処するための中国の1980年提案から編み出された。実際には香港にとっての方がずっと適切だった。この考え方は香港協定を可能にしたのだが、これを適用することが中国の利益になるという認識なら長期的にはそれ以上のものが必要だろう。

「一国二制度」は香港を中国の経済発展の梃子にしたい鄧小平の考えにピタリとはまった。サッチャーが返還後50年間の制度維持を設定した訳を尋ねた時、鄧氏は「中国はその時までに先進諸国の経済水準に近づきたいと望んでいるからだ」と答えた。富坂氏もこう書いている。

富坂:中国は台湾の人々に統一後の平穏を演出する具体的なモデルケースとして、また中国経済をけん引する役割を期待して、香港の「一国二制度」に利用価値を認めた。返還を経て香港の人々には生活する上での大きな支障はなく、「一国二制度」を挟んだ関係に荒波が立つことはなかった

富坂氏が「彼我の認識がズレている」理由にしている、香港の人々がこの制度を「自らが獲得した不可侵な権利として認識」している根拠は書かれていない。が、香港人は単に決められ2047年までの制度維持を求めているに過ぎず、中国がそれを守ってさえいたら荒波は立たなかったろう。

doctorho/flickr:編集部

鄧小平の恫喝

富坂:鄧小平は英国と香港返還交渉に臨んだ際、返還の条件を提示しようとしたサッチャー首相を制し「我々は明日にでも力で取ることもできる」とすごんだことがあったが、これは中国の本音である。

サッチャー:会議の途中、彼はその気になれば中国はその日のうちに香港に入り、占領することもできるといった。私は、確かにそうできるだろうし止めることはできないと言い返した。そしてそれは香港の崩壊をもたらし、世界はイギリスから中国に統治が変わったことで何が起こるかを見るであろうと述べた。ここで初めて彼は不意を突かれた様であった。そして雰囲気が打ち解けた

中国にとって香港などひとひねりだろう。台湾と違い海に隔てられている訳でもなく、軍隊も持たない上、英国が「香港関係法」を立法化している訳でもない。が、サッチャーは鄧小平に釘を刺して不意を突いたことを次のように回顧する。

サッチャー:しかし鄧氏はまだ本質的な点を理解しておらず、英国は香港からの資金の流出を防がねばならないなどと強調した。私は資金の流出を防いだ途端に新しい資金の流入が期待できなくなることを説明しようとした。投資家は香港に対する信頼を失い、それが香港の最期になるであろう。中国人には資本主義の法的政治的条件がほとんど判っていないことが、私には段々はっきり判ってきた。

つまり、鄧氏といえども82年の段階では資本主義の根本的な理解に欠けていた。が、この辺りから香港の後背地である深圳・東莞や上海に経済特区が盛んに設けられ始めた。富坂氏はそのことに起因する現在の「中国から見た香港の地位低下」をこう指摘する。

富坂:香港はもはや「金のなる木」ではなくなったということだ。・・(外資は)今や直接大陸と取引しているし、金融センターとしての地位も上海などに奪われる運命が見えてきている。長い将来を見据えれば、金のなる木どころか、「重たい一地方」になる可能性が出てきている。

香港独立(「港独」)

富坂:「港独」は完全に「レッドライン」を越える。その意味で、今回の逃亡犯条例に反対する政治運動は、どこまでを目標とするかが重要な視点となる。そもそも、飲み水と電力を丸ごと大陸に依存する香港が「独立」を口にすること自体が現実的ではない。もし安易に一線を踏み越えれば、逆に中国が大きな力を使い、一気に「大陸化」を進める事態になることも予測される。

サッチャー:83年1月28日に関係閣僚、当局者そして香港総督とで開いた会議で、私は、かつてシンガポールでそうしたように短期間のうちに独立あるいは自治政府をつくり上げることが我々の目的だとして、香港に民主的な体制を敷くべき時だと提案した。しかし誰もその考えに関心を示さず、不承不承引き下がった。

サッチャーは香港独立を目指していた。が、阿片戦争以来の負い目がある英国は中国に甘い。49年10月に成立した中国を早くも翌年1月に承認した。香港は独立のチャンスを逃した。確かに香港は水がない。それはシンガポールも同じだが、63年に英国からの独立を宣言してマレーシア連邦を形成し、65年に連邦から追放される形で独立した。

水は溜池と海峡を隔てたマレーシアから2061年を期限に供給を受け、海水淡水化も進めている。が、恐らく将来ともマレーシア頼みだ。国際社会の非難を考えればマレーシアも供給せざるを得まい。「香港が独立を口にすること自体が現実的ではない」のは中国が国際的な非難をものともしない国だからだろう。

中国が香港の「大陸化」を進める事態

富坂:それは単に警察の力を使うという意味ではない。観光客の大幅制限に始まり、輸出入管理のちょっとした厳格化や送金制度の見直しなど、両者の強い結びつきを前提とした見えにくいやり方で香港を干上がらせる方法はいくらでもある

中国が「観光客の大幅制限」を経済締め付け策として用いるのは周知のことで、各国の様々なデータが載っているJNTO(訪日旅行データハンドブック)を見ると、確かに中国人の台湾と韓国への旅行者数には異常な変動がある。香港にはそうして傾向はない。(単位:千人)

香港への桁違いの人数は日常的な往来の頻繁さを示している。韓国への急激な減少はTHAAD配備に対する報復、台湾への漸減は蔡英文民進党政権に対する締め付けだ。日本への急増が目立つがこれに依存してはならないということだ。

富坂氏は続けてこう述べる。

富坂:だからこそ、漠然とした「中国化」ノーを突きつければいいというものではない。言論の自由を取り決めとしていかに担保するかなど、具体的な何かを獲得してゆくことが大切なのだろう。

いつもながら中国を受容し相手側に対応を求める論調だが、香港人がいま目指しているのは「2047年まで制度維持」であることに他なるまい。

他方、サッチャーは「香港」の項を次のように結ぶ。四半世紀が経ち中国は世界第二位の経済大国になったが未だその時は訪れていない。

サッチャー:いずれの時にか中国における経済的変化の力が強まり、政治的変化に繋がるだろう。中国で人権が尊重されるように強く求めながら通商と通信の窓を開いておくことだ。経済大国にもなりかけているこの軍事大国を、国際社会の信頼できる、行動の予測が可能な一員に加えるには、それが最善の方法なのである。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。