人が使いたい人?

渋沢栄一翁は、「人に使われる者が最も大切にしなければならないのは、主人に『この人物をなるべく永く使いたい』と思わせることである。だから、用事をたくさん言いつけられるというのはとてもよいことで、不平を言うのではなく、幸せだと思わなければならない」と述べられているようです。

野村證券時代を振り返ってみますと、私自身は上の人が使いたいと思い難い人間であったかもしれません(笑)。私は当時、会社組織では上司・部下といった関係性は大事にしなければならないと思っていました。下の者が上の者に対し礼を尽くし敬意を払うことは、チームを秩序立てるために必要だからです。

だからと言って、上司に盲従するだけでは意味がないとも思っていました。ですから、「それは違うのではないですか」「この方が良いのではないですか」といった具合に、自分の主義主張や立場を何時も明確にしていました。それが若造のサラリーマンとしてはユニークと言えばユニークであったのかもしれません。

しかし、一口に上司と言っても色々で、私のように「ノーはノー」「イエスはイエス」というタイプの人間を評価する人もいるわけです。人の人に対する見方は様々ですから、別にそれ自体を気にする必要もないでしょう。私はそれよりも、『論語』の「李氏第十六の八」に「君子に三畏(さんい)あり」とある通り、天命を常に意識し、大人・聖人の言に畏れを抱きながら自分を律し、確固たる主体性を有した自己を確立できるよう努力し続けることが大事だと思っています。

他方、同じく『論語』に「君(きみ)、臣を使うに礼を以てす」(八佾第三の十九)とあるように、上の者も下の者を敬い、出来得る限りその考えに耳を傾け、愛情を持って導くという姿勢が大切です。私自身が人に求めるのは、思いも付かない事柄や成る程と感心する事柄を言ってくれることです。私が考えている事柄と同程度しか考えられない、といったことでは殆ど意味がありません。

但し、「こいつは、ひょっとしたら出藍之誉(しゅつらんのほまれ…弟子が師よりもすぐれた才能をあらわすたとえ)になるかもしれないなぁ~」と感じさせる人物は貴重だと思います。私にとって良き部下とはそうした類であって、渋沢翁の如く使い易い・使い難いといったふうには余り考えたことはありません。

それから最後にもう一つ、当ブログでも幾度も指摘している通り、昔から人の使い方として「使用…単に使うこと」「任用…任せて用いること」「信用…信じて任せて用いること」とあります。その人の本来の職責を限られた時間内に効率的に如何に果たすかという観点からも、信じて任せて用いることが出来れば一番望ましいと思います。立場が上になり部下の数が増えれば増える程、部下が最もやる気を起こしてくれる信用を出来るか否かが問われるのです。来るべき時に備え我々は常々、己を磨いておくことです。

BLOG:北尾吉孝日記
Twitter:北尾吉孝 (@yoshitaka_kitao)
facebook:北尾吉孝(SBIホールディングス)