『日本史が面白くなる「地名」の秘密』(知恵の森文庫)が、本日発売。洋泉社から新書で出ていたものの新版である。「令和」のことなどを入れ、また、大阪について一章加えた。「大阪都」という名前に「都」が入っているのはおかしいという愚劣な指摘の間違いも指摘している。これについては、すでに、大阪「都」という名は皇居がなくても問題なし2019年03月19日という記事を書いてるのでそちらを参照して欲しい。
さて、大阪市民はしばしば大正の終わりから昭和の初めにかけては大阪市が東京市を抜いて全国一位の人口だったと自慢する。
たしかに、大正14年(1925年)には大阪市が211万人で東京市が200万人を少し下回り、昭和5年(1930年)には大阪市が245万人で東京市が207万人だった。
世界でも昭和2年(1927年)の資料では、ニューヨーク(597万人)、ロンドン(455万人)、ベルリン(403万人)、シカゴ(310万人)、パリ(290万人)、大阪(225万9000人)の順だったらしい。
この理由は。ひとつには、東京が関東大震災に見舞われたからだが、もうひとつは、市域拡張が大阪の方が早く進んだからだ。
そこで、東京市と大阪市の市域拡大の歴史を少し振り返ってみよう。
郡区町村編制というのが実施されたが、このとき、江戸時代の「江戸市中」を一五区に分けて、豊島郡とか荏原郡といった各郡から独立させた。千代田、中央、港、文京、台東、それに新宿、墨田、江東の各区の一部がその範囲だった。豊島郡を南北2つの郡に分割して、の新宿や渋谷のあたりを南豊島郡にしたのはこのときだ。
現在の都心は南北どちらの豊島郡とも言い難いのだが、周辺地域の延長としてみれば、千代田区より南が南豊島郡、文京区より北が北豊島郡ということになる。
そして、明治29年(1896年)には、南豊島郡は、の中野区、杉並区に当たる西多摩郡と合併して豊多摩郡とした。したがって、関東大震災のころは、新宿や渋谷の駅周辺は東京市ではなく、豊多摩郡の淀橋村とか渋谷町が、渋谷町などは全国の市町村でも22位の人口を誇っていた。
ところが、昭和7年(1932年)になって、東京市は、荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡82町村を合併して35区からなる東京市となり、昭和12年(1938年)には千歳、砧両村(世田谷区西部)が東京市に編入になった。
さらに第二次世界大戦のなかで、昭和18年(1943年)に首都防衛強化のために、東京府・東京市を統合し東京都となった。民選の東京市長を排除して官選の知事の下に置くことが目的だった。
一方、最初の大阪市はだいたい江戸時代の大坂三郷、つまり本町通の南北と天満の三地区からなる範囲を引き継いでいた。
現在の中央区(土佐堀川、西横堀川、道頓堀川、JR環状線で囲まれたあたり。真田丸周辺は含まれず)の大半、西区のうちの木津川より東、北区のうち天満、堂島、中之島あたりが市域だった。
明治30年(1897年)に第1次市域拡張、その翌年に市制特例が廃止されて大阪市庁が府庁から独立し、1925年に第2次市域拡張があり、新市域に西成区、西淀川区、東淀川区、東成区、住吉区が設置され、現在の地域に近いかたちになった。
この時の市長は、池上四郎という人で、その娘である紀子(いとこ)が内閣統計局長となる川嶋孝彦と結婚し、その孫が秋篠宮妃殿下の紀子(きこ)さまだ。
戦後の昭和30年(1955年)になって第三次市域拡張が行われ、河内国の長吉、瓜破、矢田、加美、巽、茨田といった町村が加入した。
現在の大阪駅のある梅田付近は駅ができたときは、曾根崎村で、平野郷村は、もともと、大阪郊外にあってたいへん栄えた商業都市だった。住吉村は住吉大社で知られている。
難波、阿倍野、鶴橋、今宮といった大阪の繁華街になっているところも1889年の大阪市発足当時は郊外の村だった。
八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授