自衛官の使命
自衛官は「自衛隊法施行規則」(昭和29年総理府令第40号)第39条の規定により、一般の服務の宣誓を行わなければならない。その一節に「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います」とある。畢竟、自衛官は命がけで我々国民の負託にこたえるのだ。
自衛隊に入隊することは憲法第22条における「職業選択の自由」の行使以外の何ものでもない。その上で、自衛官は命を失う危険性を背負っているのだ。自分の命が守られている裏で人が死ぬ、という事態を我々はどのように受け止め、消化すればよいのだろうか。
死は無条件に悲しみを生む。それは、計り知ることのできない虚無感でもある。死は人が死ぬ以外の何ものでもない。そこにおける平和は平定であり、本当の意味での安らぎや穏やかさは存在しない。人身御供としての軍による平和は犠牲によるものであり、真の平和とは言い難い。
また、戦争によって奪われるものは命だけではない。建物、自然、そこにあった当たり前でありありふれた日常、思い出など、多くのものが一瞬にして奪われる。その悲しみについて、どの程度のものであるかを日本人は知っているはずだ。また、それについて容易に想像がつくだろう。
非常にエモーショナルなことを申しているが、無論、国の独立や平和はのんべんだらりとしていては到底守ることはできない。また、平和はそこら辺に転がっているわけではないのだから、自力で維持及び確保しなければならないことは紛れもない現実だ。それを否定するつもりはない。
平和の積極性
しかし、それだけに固執して行け行けどんどんのような風潮には賛同できない。即ち、我が国の役割の一つとして、世界で起きている紛争や内線の根本的な原因について究明し、その解決策を思案し、実行する必要性があるのだ。そして、戦争を生む根幹的原因要素である貧困、差別、恐怖政治などによって引き起こされる「構造的暴力」の逓減及び排除に努めてこそ、1960年代後葉、ノルウェーの平和学者であるヨハン・ガルトゥング氏が提唱した「積極的平和主義」の実現への一歩を踏み出すことができるだろう。
社会を俯瞰的な視点に立って見てみると、そこには貧富の格差が明確に存在する。それは資本主義社会であれは当然のことである。その富の配分をどのようにするかを決定するのはまさしく政治の役割である。その配分に偏りがあり、社会の中に飢餓や貧困が存在しているとすれば、それは社会構造が原因で生み出されている暴力と呼ぶ他ないのではないだろうか。貧困であれば進学格差があり、就職格差を生み、収入格差、結婚格差を生みように、貧困は垂直的次元において連鎖する構造が顕著と言える。
単に戦争などの「直接的暴力」がない状態が平和と考える「消極的平和主義」ではなく、平和の構築を立体的に行うことにより「構造的暴力」の無くなった状態こそが積極的である由縁なのだ。そのような流れを汲み、冷戦終結後の1990年代に入ると「人間の安全保障」という考え方が生まれた。人間一人ひとりの個人の尊厳に焦点を当て、社会におけるマイノリティの権利保護、人権保障などに重きを置いた包括的な安全保障体制の構築が今日においては求められているのだ。
それは憲法前文において「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」我が国の重要な役割でもあるだろう。
平和の創造
その緒は他者との対話である。とりわけ我が国の近隣諸国とは積極的にコミュニケーションをとるべきだ。過去の歴史の真実を明らかにし、それぞれの考えを共有して歩み寄るべきだ。中には、話し合っても理解はできないだろう、と悲観的に捉える人がいるかもしれない。しかし、理解できないからこそ、理解しようとすることが大切だと考える。また、分かり合えないからこそ、分かり合おうとする心を持つべきだと思う。
近年、我が国と大韓民国との間において「徴用工問題」、「慰安婦問題」が再燃しつつある。また、中華人民共和国との間においても、度々「南京問題」が取りざたされることがある。そして、先の大戦におけるA級戦犯を合祀している靖国神社への国会議員の参拝を巡っても、両国との間においては軋轢が生じている。
このような状況において、先述したガルトゥング氏は『日本人のための平和論』の中で、和解のための3つのステップを提示している。
第一に、事実を検証することだ。過去の出来事において、不確実なことが多く、証拠として出されるものの真実性が問題となる。また、歴史学者の間において、問題の解釈や事実関係を争うことがある。そして、当事者間における加害者側と被害者側との間での主張の対立や食い違いが往々にして見受けられる。そのような状況においては、双方が事実検証を行い、虚偽との峻別を図り、問題の認識共有を行う必要性がある。
第二に、合意を表明することだ。当事者同士が、問題をいつまでも引きずらないようにするため、一つの区切りをつける意味においても、合意は必要となる。しかし、2015年の「日韓慰安婦合意」において日韓両政府が「この問題が最終的かつ不可逆的に解決したことを確認する」とした慰安婦問題が、韓国の政権が変わると再び蒸し返される異常な事態が発生している。このような法の支配に背く愚行は、両国の信頼関係を大いに揺るがし、壊しかねない。つまり、単に合意すればよい、というわけではないということだ。その実効性が担保されない限り、合意する意味は全くもってない。
第三に、未来の再建に取り組むことだ。それは、当事者双方が手を携えて、共通の未来を創造するためのプロジェクトに取り組む、ということだ。賠償や合意により、過去を単に清算するだけでは真の和解を得ることはできない。共に東アジアという地域において共存する国同士、一緒に前に向かって進むことにより、はじめてトラウマは解消され、真の和解に到達することができるのだ。対立する者同士から、共に未来志向でもって共存していく友愛の精神が問題解決後においても必要であると考える。
対話を怠り、武力の行使に即、踏み切ることは武力への依存に繋がりかねない。一触即発の危険性を回避する代案としても、相手に歩み寄るコミュニケーション能力の保持は必須であると考える。つまり、対話は平和への一歩であるのだ。まずは、相手の方を向き、対話の姿勢を示さない限りにおいて、事態の進展は望むことはできない。相手が応じないことが悪い、などという他罰的な感情は一度、捨てるべきである。相手の問題に責任転嫁していても、事態の解決に向けて何かが動くわけではない。自らが能動的かつ積極的な姿勢を見せなければ、事態は硬直するだけだ。
国同士の関係が劣悪であることは、両国にとって不利益なことである。そのような緊張関係はその地域にとどまる問題ではなく、一歩間違えれば、世界中に波及する恐れも考えられる。そのような事態を回避するためには、地域安定、世界の安定に向けた取り組みが求められる。
—
丸山 貴大 大学生
1998年(平成10年)埼玉県さいたま市生まれ。幼少期、警察官になりたく、