ベルサイユ体制でいくつ国があった?満州国は?

八幡 和郎

消えた国家の謎』(イースト新書)は、個々の国の過去だけでなく、ある時代において世界にどんな国があったかを横断的に俯瞰している。

ここでは、第一次世界大戦のあとのベルサイユ体制のもとでの世界がどんなものだったかを眺めてみたい。

第1次世界大戦は、1914年に開戦して1918年の11月11日に休戦し、翌年の6月28日にドイツと連合国のあいだでベルサイユ講和条約が締結。ドイツ以外の国とは、サン=ジェルマン条約がオーストリア共和国、トリアノン条約がハンガリー王国、ヌイイ条約がブルガリア王国、セーブル条約がオスマン帝国とそれぞれ結ばれた。

こうした諸条約と、国際連盟の発足の結果としてできたのが「ベルサイユ体制」と呼ばれる。

ベルサイユ条約調印式(Wikipedia:編集部)

このベルサイユ体制で創立された国際連盟に1920年の発足時に参加していたのは48か国。

ただし、インド帝国は独立国とはいえない。イギリスの植民地で、イギリス国王が「インド帝国皇帝」を兼ねていた。インド兵が第1次世界大戦で大活躍したこともあり、イギリス外務省が各国を強引に説得して、ベルサイユ条約にも署名し、国際連盟の原加盟国になったが、これを普通には独立国とはいえまない。

自治権はあるが国というベきか微妙なのは、イギリス領のカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカだった。

また、オーストラリアがニューギニアを、南アフリカが南西アフリカを、ニュージーランドが西サモアを国際連盟の委任統治領として与えられた。国かどうか微妙なのに植民地を持つようになったわけだ。

残りの原加盟国は、43か国だが、そのうち、チェコスロバキアはオーストリア・ハンガリー二重帝国の解体の過程で、オーストリア側だったチェコとハンガリー側だったスロバキアが一緒になって設立した。

ユーゴスラビアは、セルビア王国が中心となって1918年にスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国を結成し、のちにユーゴスラビアと改称した。

フィンランドとポーランドはロシア領だったのですが、革命のあとの騒乱のなかで独立を手にした。

このとき、港湾都市であるダンツィヒ(ポーランド語名はグダンスク)は、国際連盟保護下の「自由都市ダンツィヒ」となって、外交はポーランドが握った。このため、東プロイセン地域はドイツ本土と分断され飛び地になった。

それでは、独立国であるにもかかわらず、国際連盟の原加盟国とならなかった国は、どんなところか。

アメリカ合衆国は、ウィルソン大統領が国際連盟を提案しておきながら、上院の批准が得られず、最後まで国際連盟には参加しなかった。

戦前から独立国だったもので、のちに遅れて加盟した国は、ドミニカ共和国、ドイツ、メキシコ、トルコ(オスマン帝国を継承)、ソ連(ロシアを継承)、エクアドル、アビシニア(エチオピア)だ。

オーストリア・ハンガリー二重帝国は、もともと、オーストリア部分(神聖ローマ帝国の領域)とハンガリー王国に分かれていた。オーストリアとハンガリーの君主が婚姻の結果、同じハプスブルク家になった同君連合だったからだ。

ハンガリーは、1920年に王が不在のままハンガリー王国の成立を宣言し、トリアノン条約によって面積で72%、人口で64%を失う一方、ハンガリー民族の半数ほどがハンガリー国外に取り残されてしまった国際連盟には1922年に加盟した。

トルコ共和国はいちおうオスマン帝国の継承国家だが、性格はまったく違う。

エチオピアのことを西洋人はアビシニアと呼んでいた。1923年に国際連盟にも加盟した。

そのほか、ブータン、ネパール、アイスランド、アンドラ、リヒテンシュタイン、モナコ、サンマリノといった小国群も戦前からあったが、最後まで国際連盟には加盟しなかった。

ベルサイユ体制の構築過程で生まれ、少し遅れて国際連盟に加盟したのが、リトアニア、ラトビア、エストニアのバルト三国だ。この三国は、ロシア革命ののち1918年に独立を宣言し、1921年に国際連盟に加盟した。

アフガニスタンは、南部カンダハル(語源としてはアレキサンドリアと同じ)から出たパシュトゥーン人が1747年にイランから独立した。1880年にイギリスの保護国となり、第1次世界大戦後の1919年に独立し、1934年に国際連盟にも加入した。

オスマン帝国のうち中東地域では、イエメンが独立、メッカの支配者であるフセインが「アラビアのロレンス」の後押しでアラビア半島の西部を支配するヒジャーズ王国を建国しカリフまで名乗ったが、サウジアラビアとの内戦に敗れて消えた。

ということで、ベルサイユ体制の下での国の数を数えると、国際連盟原加盟国のうちインド帝国を除いた47、それ以外で戦前からあった17か国、新しい独立国が5か国という計算にすると、69か国ということになる。

溥儀(Wikipedia:編集部)

ベルサイユ体制確立のときと、第2次世界大戦のあいだにもいくつかの国ができてはいる。そのなかに満州国がある。満洲国について、認めていたのは日本だけだという人がいるが、それは独立当初のことだ。最終的には、当時世界にあった国の3分の1ほどから承認された。また、ソ連とも実務関係は結んでいた。

1932年に建国され、1934年には宣統帝溥儀が皇帝になったが、日本の敗戦で中国に戻った。宣統帝の即位以降は、「満州国」と「満洲帝国」が併用された。

中国とその周辺では、モンゴルは、辛亥革命を受けて中国から独立宣言し、チベット仏教の指導者で、ダライラマの同じように「転生」によって継承されたジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)が皇帝となり、その1924年の死後になって、モンゴル人民共和国の建国が宣言された。

戦後になって、北京政府はソ連との友好関係のためにこの独立を認めたのだが、国連での代表権を持っていた台北の国民政府はかたくなにみとめず、このために、国連加盟が認められたのは、1961年だ。

また、中国の新疆ウイグル自治区では、二度にわたって東トルキスタン政府が組織されたが、独立を果たせなかった。チベットは、宗教国家として普通の国とは違う性格で、中国とチベットの関係は、中世ヨーロッパにおける神聖ローマ帝国とローマ教皇や教皇領の関係にいちばん似たものだ。


八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授