「改憲なき戦後レジームからの脱却」の検討を

高山 貴男

「9条の理念」は日本国憲法の外にある。

護憲派に言わせると日本国憲法9条は「人類の理想」とか「世界最先端の思想」であり、卓越した理念と言う。だから憲法9条を改正しようとする改憲派はこの卓越した「9条の理念」を真っ向から否定する平和への挑戦者以外の何者でもない。

自民党サイトより:編集部

一方、憲法9条で示された条文は日本国憲法制定前から存在する不戦条約(1928年)、国連憲章(1945年)で示された平和主義を反映させたものに過ぎず、決して日本国憲法独自の思想ではない。「9条の理念」は外来のものであり日本国憲法の外にある。

だから憲法9条の改正、例えば憲法9条2項を削除しても「9条の理念」は失われない。人類の普遍的理念たる平和主義が日本国憲法に規定されることでしか発揮されないという思考は憲法を聖典視したものに他ならない。

また、護憲派は憲法9条を根拠に戦後日本の卓越性を主張しているわけだから、その思考は極右的とも言える。護憲派の思考が極右的ならば同派への警戒は必要である。

1930年代の大日本帝国では大日本帝国憲法を「不磨の大典」と位置づける極右が跋扈し、大日本帝国の意思決定システムを破壊し、同帝国を崩壊に導いた。

「大日本帝国の崩壊」で我々が学ぶことは国際情勢、軍隊の動向だけではない。憲法を聖典視し極右的思考(思想ではない)を持つ勢力の跋扈を抑えることである。

日本国憲法は「悪の大典」か? 

戦前・戦後において憲法を聖典視し極右的思考を持つ勢力が跋扈する最大の原因は憲法学者による偏向的憲法解釈がまかり通ったことにある。

日本国憲法におけるその最大の犠牲者は国際主義である。「戦争放棄」が高らかに謳われる日本国憲法だが、放棄した「戦争」はあくまでも「国権の発動たる戦争」であり、これは「宣戦布告すれば主権国家は自由に戦争が出来る」といった19世紀のヨーロッパ国際法の理解に基づいた戦争に過ぎず、国連憲章51条を根拠とする「自衛権の行使」に基づく戦争は放棄されていない。

だから国連憲章51条を根拠とする「自衛権の行使」の範疇ならば軍隊の設置はもちろん集団的自衛権の行使も全面的に認められる。

こうした憲法学者による国際法への無理解・偏見は国際政治学者の篠田英朗教授の著書『憲法学の病』が余すことなく指摘している。

犠牲者は国際主義だけではない。天皇もまた犠牲者である。「天皇は象徴に過ぎない」というニュアンスで天皇を否定的消極的に解釈することが憲法学では主流となった。

天皇と国民主権の「対立」が殊更、強調され、憲法学者は声高に主張こそしないが「天皇は本来、ないほうが良い」といった姿勢を隠さない。

このため戦後日本では天皇・皇族を軽んじたり嘲笑したりすることが「民主主義」的という低俗な風潮を生んだ。

続く犠牲者は議会制民主主義である。

憲法学者は日本国憲法によって「天皇の神聖性」が剥奪されたと誇り「日本国憲法の民主性」を強調するが憲法から神聖性を持つ条項がなくなったわけではない。

神聖性が天皇から国民主権に移動したに過ぎない。憲法学者は国民主権を異様に重視し、その神聖性を強調している。

憲法学者によって大日本帝国の天皇並みに国民主権の神聖性が強調され、その結果、リベラル界隈では議会制(間接)民主主義より直接民主主義の方が「民主的」という認識になった。

2015年の安保法制をめぐる国会前デモ、大人の目線を意識してラップ・パフォーマンスを行う若者(SEALDs)や老化に伴う肉体的衰退を無視して若者風の髪型や服装をする「正視に堪えない」中高年達こそが「民主主義」の担い手であり、選挙を経て成る「国民の代表者」たる国会議員が「反民主主義」の権化のように報道されたのもこの認識の結果である。「リベラル野党」の存在が国会前デモを増長させたのは言うまでもない。

そして安保法制の国会審議を境に国民主権の神聖性が加速し「立憲主義」のインフレを招いた。

国家に要請された国民保護機能など全く無視し「憲法は国家権力を制限するものだ」という言説が今なお横行している。

そしてどうもこの「立憲主義」に感化された者の一部が安倍首相の演説を妨害しているようである。

参照:安倍首相による東京・中野での応援演説、政権への賛否で一部で衝突も 何が起きたか(BuzzFeed News)

演説妨害など肯定する要素は全くない。知性・品性を放棄した者による犯罪に過ぎない。

このように憲法学者の偏向的憲法解釈により戦後日本では国際法・天皇・議会制民主主義が正当な評価を受けず、その結果、日本国憲法は対外的には「侵略の呼び水」対内的には知性・品性を放棄した者による国政介入を招く役割を果たしている。

これでは日本国憲法は「悪の大典」と言われても仕方がないだろう。

正当な憲法解釈に基づく政策を

偏向的憲法解釈の結果、日本国憲法が「悪の大典」に成り下がっているわけだから、正当な憲法解釈に基づく政策、また、偏向的憲法解釈が広まらない政策を採るべきである。

具体的には下記の三つの政策を採るべきである。

  1. 集団的自衛権の行使の全面容認
  2. 天皇の積極的解釈・適切な保護
  3. 国会議席の獲得を目指す政党・政治団体に現実的安全保障政策の採用を義務づかせる

1. についてだが周知のとおり集団的自衛権の行使は「限定」にしか認めていない。しかし当初は「全面」を志向していた。公明党への配慮の結果「限定」しか認めなかった。確かに「限定」でも現在の日本の安全保障環境に対応できるという指摘もあろう。

しかし、将来はわからないし「全面」容認することで日本国憲法で本来、要請されている国際主義へのコミットが達成出来る。

続いて2. の「積極的解釈」だが政府が野党やマスコミから質問を受けたときだけ天皇への解釈を示すのではなく天皇に関する基本法を制定してより詳細な天皇解釈を示すべきである。基本法で明記される解釈では少なくとも天皇と国民主権が対立関係にないことを示す条文が求められる。

また「適切な保護」についてだが「象徴侮辱罪」の制定が必要であり、このことについて筆者は既に記した。

参照:天皇は正当に解釈されているか?

最後に3. だが、現行の政党・政治団体について定義が示された関係法を整理したうえで

「自衛隊の解散・集団的自衛権の行使の禁止」を主張する政党・政治団体が比例票を獲得出来ないようにする。

「自衛隊の解散・集団的自衛権の行使の禁止」は一つの意見であるが、無責任な意見に他ならない。国家の存立に対して無責任な政治勢力が国会で多数派にならないような仕組みを構築すべきである。

また、こうした姿勢を取ることで無責任な政治勢力を「責任ある政治勢力」に転換させることも期待出来る。国会が「責任ある政治勢力」で占められれば国会前デモも抑制あるものになるだろう。

これらの政策が実現すれば日本の安全保障政策は国際標準化し、天皇も品性ある空間で語られ、野党も正常化し国会審議も止まらず国会前デモも落ち着き議会制民主主義を取り戻せる。

「改憲なき戦後レジームからの脱却」の検討を

2006年に誕生した第一次安倍政権では「戦後レジームからの脱却」を唱えた。現在、この言葉は使われていないが「安倍政権」の性格を語るうえで重要な言葉である。

安倍首相が具体的にどんな政策を通じて「戦後レジームからの脱却」を考えていたのか知らないが「安保・天皇・国会」の三つが護憲派から解放されればそれは「戦後レジームからの脱却」と言っても良いのではないだろうか。

やや大胆なことを言えば本記事で示したものは「改憲なき戦後レジームからの脱却」である。

参議院議員選挙の結果はもちろんわからないが、結果はどうであれ改憲が極めて困難であることは容易に想像出来る。そうした現実を踏まえれば「改憲なき戦後レジームからの脱却」も実際的意味を持つのではないだろうか。

高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員