美しい心とは~含徳の厚きは赤子に比す~

イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんは、美しい心というものについて、「それは、自分はどんな汚いものを受け入れても、自分から出すときにはきれいにして出す。そのような心になって初めて、美しい心と言えるのではないかと思います」と述べておられるようです。

私が美しい心と聞いてぱっと思い浮かぶのは、公平無私(こうへいむし)或いは虚心坦懐(きょしんたんかい)という四字熟語であります。国語辞書で夫々見てみますと、前者は「一方に偏ることなく平等で、私心をもたないさま」、後者は「心になんのわだかまりもなく、気持ちがさっぱりしていること」等と書かれています。

虚心とは、「心に先入観やわだかまりがなく、ありのままを素直に受け入れることのできる心の状態」を言うものです。赤心(せきしん:嘘いつわりのない、ありのままの心)という言葉がありますが、赤ん坊の心は正に虚心そのものではないかと思います。

『大学』では、「明徳を明らかにする…自分の心に生まれ持っている良心を明らかにする」ことが大切だと「経一章」から教えているのです。明というのは、全ての人々が母親の胎内に宿った時から有しているものだと言う人もいます。

本来人間は皆赤心で無欲の中に生まれてきているにも拘らず、段々と自己主張するようになり私利私欲の心が芽生えてき、そして此の明徳が私利私欲の強さに応じて次第に曇らされ、結局は明がなくなって行くということにもなります。

人間誰しもが持っている良心は欲に汚れぬ限り保たれて行くものであり、故に老子は「含徳(がんとく)の厚きは、赤子(せきし)に比す…内なる徳を豊かに備えた人の有様は、赤ん坊に例えられる」と言い、赤心にかえれとしたわけです。

あるいは孟子は、「大人(たいじん)なる者は、其の赤子の心を失わざる者なり…大徳の人と言われるほどの人物は、いつまでも赤子のような純真な心を失わずに持っているものだ」と言っているわけです。

『三国志』の英雄・諸葛孔明は五丈原で陣没する時、息子の瞻(せん)に宛てた手紙の中に「澹泊明志、寧静致遠(たんぱくめいし、ねいせいちえん)」という、遺言としての有名な対句を認(したた)めました。

之は、「私利私欲に溺れることなく淡泊でなければ志を明らかにできない。落ち着いてゆったりした静かな気持ちでいなければ遠大な境地に到達できない」といった意味になります。私利私欲を遠ざけ何事に囚われるのではなくて、齢も無垢な生地の自分というか赤心というものを維持できることが、私は最も美しいと言えるのではないかと思います。

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