8月1日のチャイナデイリーは、同日から「本土は台湾への個人旅行を停止する(Mainland halts trips to Taiwan by individuals)」と報じた。同紙はその理由を「現下の両岸情勢に鑑みて(given the current climate of cross-Straits relations)」としているが、来年1月の台湾総統・立法議員選挙に向けた民進党候補への圧力であることは誰の目にも明らかだ。
大陸から台湾への個人旅行は、2011年6月に北京・上海・厦門の各都市からの旅行者に対して初めて許可され、その後3年間で天津、重慶、南京などの富裕層の多く居住する47都市に拡大された。同紙は、今回の一時停止はすでに減速している台湾の観光市場に影響を与えるだろうとしている。
台湾観光局に依れば、6月の台湾への中国人を含む全旅行者は約93万人で、前年同月8.9%増だったが前月比では23.5%減ったそうだ。ここ数年は本土から台湾への旅行者のおよそ40%を占めていた個人旅行者は、今後はツアーに参加しなければならない、と中国の旅行業者は同紙に語っている。
カリブ諸国訪問中の蔡英文台湾総統が米国による22億ドル相当の台湾への武器売却を承認した翌日に米国に立ち寄った件も同紙は併せて報じ、「停止は観光産業の健全な発展のため時宜を得ており、紛争に巻き込まれないよう安全上の懸念から観光客は団体旅行を選べる」と大学教授に語らせている。
まるで個人旅行だと中国人旅行客が台湾人に殴られる恐れがあるとでもいうのだろうか。中国や韓国でもあるまいし、台湾は日本と同様に治安の良さと親切な国民性が売り物の一つになっている歴とした観光立国だ。中国の大学教授の話はとんでもなく事実を捻じ曲げている。
そこで、日本政府観光局のデータを見ると、中国から台湾への旅行者数は、2008年には33万人に過ぎなかったものが、09年は97万人、10年は163万人と漸増し、12年に260万人、14年に399万人そして15年には418万人と右肩上がりだった。が、16年351万人に減り、17年には273万人と激減した。
これを台湾の政権政党と重ね合わせると増減理由が見えてくる。すなわち、2000年5月に初めて政権の座に就いた民進党陳水扁総統を、08年5月の選挙で国民党の馬英九が破った途端に旅行者が増え、16年5月に民進党の蔡英文が政権を奪回すると旅行者が減るという、分かり易いことこの上ない理由だ。
国民党の馬英九が政権を奪取して以来、確かに中台の経済・社会交流は三通やECFAなどによって急拡大した。中国人旅行者の激増はこの一環だ。初めは一部の都市住民に限り開放された台湾への団体旅行は地域要件が緩和・撤廃されると共に拡大し、2011年からは居住地制限付きで個人旅行も解禁された。
中国人旅行者の急増は台湾の観光業・小売業にとって絶好の好機だった。馬英九政権以降の数年間、台湾はホテルの建設・改装ラッシュや土産物の売り上げの急拡大といった中国人旅行客の経済効果が広がった。当時、高雄に在住していた筆者は日本の某ビジネスホテルチェーンの重役の視察を案内したことすらあった。
が、中国人旅行者の拡大は台湾にとって劇薬でもある。というのも、台湾ツアーは、中国側は各市・省ごとに中国旅游局の指定の旅行業者が組織する。この業者はどれも国営系の旅行業者だ。他方、台湾でツアーを受け入れるのは民間の旅行業者で、中国側と台湾側の交渉力は圧倒的に後者に不利だ。
なぜなら中国側が各地域の需要を寡占しているのに対し、台湾側では数百の業者がツアー客の受け入れをめぐって激しい競争をしているからだ。激しい競争の煽りで中国側が台湾側にツアー客一人当たりの費用はかつての3〜4割にまで下落したとされる。
が、このような低予算で旅行者の宿泊費・食費・交通費等をまかなうことはほぼ不可能だ。台湾側の多くのはコスト割れ覚悟で中国からの観光客の受け入れ競争することになる。これがツアーの質の低下、つまりは観光客を店から店へと連れ回して無理やり買い物をさせるようなことになるという訳だ。
しかし個人旅行はこのような団体旅行とは趣を異にして、自由度があるだろう。もしや今回の停止の裏に中国の団体旅行業者の圧力があるやも知れぬ。蔡英文総統も間髪を入れず、「観光客を政治の道具として扱うのは台湾人の反感を買うだけ。観光は政治化されるべきではない」との談話を発表した。
蔡総統は、中国が今の時期にこの決定を下すのは「戦略上の大きな誤り」と批判。個人旅行は中国の若者にとって台湾を知る最良の方法だとし、若者の権利が奪われたことに「とても残念に感じる」と述べ、今回の禁止で威嚇する対象は台湾だが、ダメージを受けるのは個人旅行を切望する中国の若者だと指摘した。時宜を得た的確な発言と思う。
台湾人の筆者の友人の多くが異口同音に「昨年11月に選挙に負けて蔡英文は変わった、強くなった」という。他方、「韓国瑜は嘘が多い」との評判だ。台北市長の柯文哲も候補者要件を得るべく新党結成を宣言した。が、焦って早々と圧力を掛け中国何するものぞ、蔡英文の勝利を筆者は応援する。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。