あいちトリエンナーレ2019の展示の一つ「表現の不自由展・その後」が開幕から3日にして中止となった。またしても拙稿(百田氏、香山氏講演中止に思う「民主的な議論」のあり方)で取り上げたような事例が起きてしまった。本展示に対して様々な批判があることは、まさしく表現の自由である。
しかし、その展示をテロルによって葬り去ろうとする行為は、表現の自由に対する大いなる挑戦だ。このような事態について、政治的思想を超えて由々しき問題であると改めて認識する必要があろう。
『論語』に「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」という言葉がある。自分がやられて嫌なことは他人に対してもするな、という実に簡単な意味だ。しかし、実際には「己の欲せざる所は人に施すのが常」ではないだろうか。『ハンムラビ法典』に出てくる「目には目を歯には歯を」という表現が意味する「同害報復」ではないが、やられたらやり返してしまうことが往々にしてある。
例えば、政治的主張が対立する渦中において、飛び交う罵詈雑言がその典型だ。自らの見解について、けちょんけちょんにされたり、あからさまに否定されたりする。そのような経験をした人は、怒り心頭に発することであろう。そして、その業腹さ故に、相手に対する自らの言葉も荒々しくなる。これが穢れた言葉の応酬である。
一見すると、忌憚なく意見を戦わせる活発な言論の場だとしても、一方で、揚げ足取りや悪口の言い合いに徹する泥仕合との見方もできる。要するに、侃々諤々、喧々囂々、丁々発止の議論であったとしても、建設的であるかどうかは不明であるということだ。
民主主義社会において、主権者たる各人が自己統治の実現の価値を高める表現の自由について、その重要性が常々説かれる。それはその通りである。意見が対立する問題について、俯瞰的且つ多角的に物事を考察することにより、幅広い意見を集約することに繋がるのだ。それは、まさしく民主主義の道理であろう。
これが自分主義に陥ってしまうと、自らの見解とは異なる説について、葬り去ろうとする。それは、自分に都合が悪いことについて、自らの範疇から避けるのならまだしも、その説が社会に蔓延ることさえ、忌避することがある。
民主主義とは、皆で物事を決めようとする主義主張だ。故に、自分が気に食わない人物や物事について、皆が共有する社会から追いやることは不適切である。自分にとって異論や暴論だとしても、それが社会全体にとって、どのような意味を成すかについては、個人によって捉え方が異なる。だからこそ、議論すれば良いのだ。つまり、一旦、物事の論点を遠慮なく出した上で、それについて選定する民主的作業が求められるのだ。
自分にとってはこうだから、社会にとっても同様の効果をもたらすであろう、と考えることはエゴイズム、即ち自分主義に他ならない。自らの世界と皆が共有する社会は次元が異なる別世界なのだ。それを一緒くたにすることは傲慢極まりない。
そうではなく、自分はこのように考えるが、他者はどのような見解を持ち、社会にとってはどのような意味があるのか、という共有感覚を念頭に置く必要がある。独占感覚に陥ってしまうと、他者を排除しかねず、民主主義の形成を阻害しかねないからだ。
その形成過程において、必須とされるものが国家からの自由である「表現の自由」である。では、それは一体何の為にあるのだろうか。個人の内にある思想を表面化させる手段である表現の自由は、自己実現の価値と自己統治の価値を高めるために起因する。故に、ざっくばらんに表現していただいて構わない。しかし、自由を盾にして如何なる表現も許容されるわけではない。
思考段階においては、何を考えようと自由だ。そもそも、個人の内面を客観的に捉えることは難しく、沈黙の内においては許容される。問題は、それを外に表したときだ。即ち、表現の自由を行使し、他者に対して影響を及ぼす段階においては、それが許されざる場合もある。
その線引きは何か。例えば、脅迫、名誉毀損、侮辱、扇動、わいせつ、差別などが挙げられよう。それらは他者に対して危害を及ぼすものである。このような作用を及ぼす表現の自由については、それを表明する前段階の思考において、峻別しなければならない。
表現する方法及びその内容について、公人から検閲されたり、介入されたりすることがあってはならない。だが、それに例外があることは事実である。法的な観点以外にも、不快感やマナー、モラルの面において問題視されることもある。
ここで問われているものは、表現力の礎たる思考力そのものではないだろうか。表現の自由の行使に際し、細かいことを要求して萎縮することは心外だが、今一度、その「自由」について熟考することが求められている。
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丸山 貴大 大学生
1998年(平成10年)埼玉県さいたま市生まれ。幼少期、警察官になりたく、