大リーグで活躍したイチロー選手は現役を終えることを決めた直後の記者会見で「僕も外国人ですからね」と答えていたのが非常に印象に残っている。
イチロー選手の「やはり外国人ですからね」はいろいろな意味合いが込められているのだろう。日本から大リーグに移籍した直後、英語が全く分からないかった時代などに体験した内容も含まれているだろうし、人種、民族的な違いに端を発した「自分は外国人だ」という思いも込められていたのかもしれない。外国人となった故に見えてきた世界もあったのだろうか(「イチローが語った『外国人となることの意義』」2019年3月23日参考)。
トランプ米大統領がヒスパニック系出身の議員に対し、「出身国に戻ったらいいよ」と発言し、与・野党議員ばかりか、多くの国民から顰蹙をかったばかりだ。対中国政策では共産党政権の野望を見抜き、画期的な対応を見せるトランプ氏だが、民族主義的傾向はやはり否定できないだろう。
….and viciously telling the people of the United States, the greatest and most powerful Nation on earth, how our government is to be run. Why don’t they go back and help fix the totally broken and crime infested places from which they came. Then come back and show us how….
— Donald J. Trump (@realDonaldTrump) July 14, 2019
外国人問題が大きな政治議題となる契機は2015年の中東・北アフリカからの難民殺到だろう。「15年前」と「15年後」では欧州の政治は激変したといわれる。欧州の単一通貨(ユーロ)や共同防衛構想などの議題は吹っ飛び、難民・移民問題が欧州の政界を独占していった。
外国人排斥、反難民・移民傾向が強まり、欧州では民族主義的な政党や運動が次々と台頭してきた。同時に、イスラム・フォビアが現れ、ハンガリーやポーランドではイスラムの北上を阻止すべきだという声(ハンガリーの首相の名をつけたオルバン主義と呼ばれた)が出て、欧州の国民の支持を集めていった。世界最強の米国で“米国第一”を叫ぶトランプ氏が米国大統領に選出されてからは、世界は“自国ファースト”を標榜する動きが多国間協調、国際連携といった声を消していった。
難民、移民は現地の人間にとって外国人だ。肌の色、言語、文化、宗教も異なる異邦人だ。だから、程度の差こそあれ、外国人に対する警戒心、特には恐怖心が湧いてくる。難民・移民による犯罪が増えれば、反難民・移民の声が国民の中から湧いてくるのは当然かもしれない。
欧州の治安問題を考えるとき、外国人による犯罪件数、犯罪認知件数に占める外国人犯罪率が大きなウエイトを占める。「15年前」には外国人率、外国人犯罪率といったカテゴリーは社会学者のテーマと受け取られていたが、「15年後」は国の安全のバロメーターと受け取られ出した。外国人率が低く、その犯罪率が低ければ「治安は安定している」といった具合だ。
ちなみに、実際は外国人犯罪率より、現地人の犯罪率の方が圧倒的に多いが、異邦人の犯罪は国内の治安に大きなインパクトを与える。「やはり外国人は怖い」「外国人を追放すべきだ」といった思いが広がる。統計と実感の格差は外国人犯罪件数ではより顕著にみられるわけだ。参考までに、オルバン首相のハンガリーの外国人率は1.7%に過ぎない。外国人数は2018年の段階で約16万人だ。
欧州連合(EU)加盟国の統計を担当するユーロスタット(Eurostat)によると、当方が住むオーストリアでは2018年、約138万5000人の外国人が住んでいるが、2010年比で約50万人増え、増加率は58%でEU加盟国でも最高値だ。外国人率は15%だ。15年時に殺到する難民を寛大に受け入れてきたドイツの外国人総数は昨年、963万人で、2010年比で35%増を記録、外国人率は11%だ。
ドイツの政界は「15年前」と「15年後」では激変してきた。キリスト教民主同盟・社会同盟(CDU/CSU)と社会民主党(SPD)の2大政党独占時代は過ぎ去り、旧西独では「同盟90/緑の党」がCDUの第1党の地位を脅かすほど躍進する一方、旧東独では反難民・移民政策、外国人排斥政策を掲げる極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)が第1党に躍進している。特に、SPDは旧東西でその勢力を選挙の度に著しく失い、存続の危機に陥っている。
人は「希望」より、「不安」に動かれやすい存在だ。外国人はその外観から仕草まで社会の異分子だ。区別は「社会に統合した外国人」と「社会に統合できない外国人」のカテゴリーに分けられる。後者の外国人に対しては社会は警戒し、不安にかられ、排斥する。
しかし、外国人問題の本当の深刻さは前者だろう。社会に統合したとしても「外国人」というレッテルは剥がせられないからだ。イチロー選手は米国社会でも英雄であり、実績も飛び抜けているが、現役を終える試合後の記者会見で「自分はやはり外国人ですからね」と吐露した。その「外国人」は社会に統合しているとか、外国の地で実績を残したとかは全く関係がない「外国人」なのだ。欧米社会の場合、特にアジア系やアフリカ系の外国人の場合、人種的外観から外国人という枠から抜け出すことは難しい。米国で最初の有色人種出身の大統領になったオバマ氏ですら、アフリカ出身といった出自が常に囁かれた。
先進諸国で外国人率が高いのはスイスだ。その比率は25%、国民の4人に1人が外国人だ。世界から追われてきた流れ者が住む場所といわれてきたスイスだが、最近は外国人への取り締まりを強化する一方、反難民・移民、イスラム・フォビアといった現象が大きな社会問題となってきている(「外国人率25%のスイスの悩み」2016年3月1日参考)。
それでは外国人への恐れ、不安が解消される社会の外国人率はどれだけだろうか。「外国人」という呼称、概念が死語となることは考えられるだろうか。
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「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年8月10日の記事に一部加筆。