「ベルリンの壁」崩壊の契機:30年前に東西間の国境が開かれた

1989年8月19日、ハンガリーとオーストリア両国間の国境が一時解放され、約600人の旧東独国民がオーストリアに入国し、そこから旧西独に亡命していった。同出来事は「ベルリンの壁」崩壊をもたらす契機となった歴史的出来事となった。あれから30年目を迎えた19日、ハンガリー北西部のショプロン市でメルケル独首相とハンガリーのオルバン首相が会見し、国境解放30年を祝った。

メルケル独首相とハンガリーのオルバン首相の記者会見(2019年8月19日、ハンガリー・ショプロンで、ドイツ民間放送NTV中継から)

国境解放の直接の契機は、汎ヨーロピアン・ピクニックが両国国境近くでベルリンの壁崩壊を訴える集会を開催したが、その時、ハンガリー入りしていた多くの旧東独国民はハンガリー・オーストリア間の国境が一時解放されると聞き、国境に殺到していったことだ。それに先立ち、ハンガリーとオーストリア両国は1989年6月27日、両国国境線に張り巡らせられていた鉄条網(鉄のカーテン)を切断している。

あれから30年が過ぎた。ハンガリーは2015年、中東・北アフリカ諸国からの難民・移民の殺到に直面し、国境を閉鎖し、鉄条網を設置した。オルバン政権の難民政策はその後、“オルバン主義”と呼ばれ、難民対策の大きな流れを形成していった。隣国オーストリアもクルツ政権(当時)は、オルバン政権と同様、国境線を閉鎖していったことは周知の事実だ。

興味深いことは、旧東欧諸国の民主化を先駆け、旧東独国民のために国境を解放したハンガリーが30年後、欧州諸国の中でいち早く難民に対して国境を閉鎖したことだ。

1989年の国境開放には明確な理由があった。旧ソ連の衛星国家だったハンガリーは市場経済を導入し、他の東欧共産国からグラーシュ政策と誹謗されたほど自由化が進んでいた。ハンガリー動乱(1956年10月)は旧ソ連によって弾圧され、同動乱で数千人の国民が殺害され、約25万人が国外に政治亡命したが、その33年後、旧東独国民への国境開放を通じて、その夢を成し遂げていったわけだ(「『ベルリンの壁』崩壊とハンガリー」2014年11月9日参考)。

当方は1989年、ハンガリー社会主義労働者党(共産党)政権最後の首相、ミクローシュ・ネーメト首相(当時)とブタペストの首相官邸で単独会見した。その時、ハンガリー共産党は臨時党大会開催を控えていた。共産党内には改革派と保守派が激しく権力争いを展開していた。同首相は会見の中で「党を分裂させても、わが国は共産主義から決別する」と表明したことを鮮明に思い出す。

国境解放30年後のオルバン現政権に戻る。オルバン首相は、「欧州をイスラム化から守る」と表明し、中東・北アフリカからのイスラム系難民の受け入れを拒否してきた。ちなみに、ハンガリーは約150年間(1541〜1699年)、オスマン帝国の支配下にあった。

オルバン政権の対難民政策には揺れがない。イスラム系難民は受け入れない。難民歓迎政策を主張していたメルケル独首相とは常に対立を繰り返してきたわけだ。

オルバン首相は、「1989年は共産政権時代から民主化へ向かう転換期だった。ハンガリーは旧東独国民のためにその国境線を開放しなければならなかった。そして現在、ハンガリーは国境を閉鎖しなければならなくなった。なぜなら、自由を守らなければならないからだ。両者はコインの両面だ」という。簡単にいえば、前者は“自由を得る”ために、後者は“自由を守る”ためだったという。

そのオルバン首相とメルケル首相が19日、国境解放30年の記念式典で会見した。前者は欧州で難民受け入れ拒否の先頭を走り、後者は人道的観点から難民受け入れを進めてきた。難民政策では対照的な両首相だ。

なお、メルケル首相は記者会見で、「30年前の国境解放は歴史的だった。欧州の未来に対してインスピレーションを与える出来事だ」と述べる一方、ハンガリー国民に感謝を表明した。

欧州で国境が解放され、自由な行き来ができたのは、冷戦時代が終わり、欧州の統合が進められた束の間だった。2015年以降、殺到する難民対策のために欧州の国境は再び閉鎖され、シェンゲン協定は一時的だが、失効状況下に置かれた。多くの欧州の国々にとって、国境は依然、主権保護の重要な役割を担っている。自由に行き来できる「国境なき欧州」はまだ実現されていない。

ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年8月20日の記事に一部加筆。