「平和主義」は自衛隊を禁じている?憲法と国際法を確認してみた --- 立岡 大暉

「平和主義」は原理ではなく、目的として理解されるべきである。実際に、日本国憲法から「平和主義」を原理として導き出すことは困難である。

「平和主義」が目的であるならば、それを達成するための手段が様々存在すること意味する。そこで、自衛目的の能力保持がその手段として妥当性を持つか否かが問題となる。

陸自公式Flickr:編集部

自衛目的の保持は平和を実現するための手段として、禁じられているのであろうか。まず、憲法9条を確認してみたい。

<憲法9条>

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

9条1項では、国権の発動たる戦争、武力による威嚇又は武力の行使が、国際紛争を解決するための手段としてはという留保付きで放棄されている。これは戦争全般を禁じた条文ではあるが、全ての能力の放棄を要求したものではない。これは多くの論者が指摘しているようにパリ不戦条約(1928)の焼き直しであり、特異な条文であるとは言い難い。

問題は憲法9条2項の解釈をめぐって生じる。9条2項では、1項で禁止された戦争を遂行する目的の「戦力」を禁じていると考えるべきである。そう考えれば、1項と2項との間の論理的整合性がより明確になり、自衛目的の能力保有は留保されているという事が理解できる。

9条に集団的自衛権を放棄する規定が設けられていないのは、個別的・集団的問わず、国際法(国連憲章51条)上の自衛権の保有を認めているからであると推察できる。個別的自衛権が合憲で、集団的自衛権が違憲であると9条を根拠に主張するのであれば、論拠が示されなければならない。

日本語の「戦力」という語のみに着目して、1項、2項の連結性を無視した解釈を行えば、あらゆるものが「戦力」に該当し、違憲となるだろう。しかし、それは妥当な解釈とは言えない。ここで、9条の英文を確認してみたい。

<article 9>

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.

憲法9条2項の日本語では「戦力」、英語では「war potential」と表現されている。英語では、戦争遂行のための能力の保持を禁止している事が読み取れる。1項で述べられた「war」と2項の「war potential」の「war」を同一概念として考えるべきである。そのため、自衛目的で能力を保持する事は、禁止された手段ではないと考えられる。

自衛権の行使を「自衛戦争」と呼ぶ者もいるが、それは解釈を倒錯するものである。9条2項で認められた自衛権を無視して、留保された権利を1項で禁止された「戦争」に含めて解釈を行う事は強引である。これは結論ありきの論理であり、妥当性に欠ける。1項、2項の繋がりを軽視した理解をするならば、なぜ1項が敢えて設けられているのかが良くわからなくなる。

しかし自衛目的であれば、直ちに能力を行使していいわけではない。なぜなら国際法により歯止めがかかるためである。目的も制限されるが、手段も制限されるのである。そのため、歯止めが無くなるという批判は妥当ではない。

例えば国連憲章33条には平和的な手段で紛争解決をする旨が書かれている。また、国連憲章51条では、自衛権の行使はあくまで国連が必要な措置を取るまでという留保付きの行使になる記述がある。

<国連憲章33条>

いかなる紛争でも継続が国際の平和及び安全の維持を危うくする虞のあるものについては、その当事者は、まず第一に、交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取極の利用その他当事者が選ぶ平和的手段による解決を求めなければならない。

安全保障理事会は、必要と認めるときは、当事者に対して、その紛争を前記の手段によって解決するように要請する。

<国連憲章51条>

この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。

また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

このように、能力行使は国際法の枠組み内でのみという制限付きであり、決して無制限ではないのである。国際法を破ることは、国際社会からの孤立を意味し、相当な覚悟が必要になる。また国内世論からの非難も免れないであろう。

やはり、「平和主義」は目的という前提のもとに、戦争遂行目的の能力(戦力)は禁じられてはいるが、自衛目的の能力は留保されている手段と考えるのが妥当であろう。その手段も国際法によって拘束され、決して無制限に行使できるわけではないのである。

立岡 大暉 大学生
安全保障、憲法、国際法に関心を持つ大学生。