高田昭義さんのことを改めて想う

尊敬するかたはたくさんいます。亡きかたで最も尊敬するのは、郵政省官房長だった高田昭義さん。「電気通信事業法案」を執筆した方です。パンクなひとでした。亡くなったのは1999年6月。それから20年になります。

当時書いた追悼文を引っ張り出します。現役の官僚で彼を知る人のほうが少なくなったでしょう。昔はこんなひともいた。長文ですが、いま読み返す意味があると思うので、全文です。

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あれからさすがにしばらくショックでした。6月25日。高田さんが天国に召されたという郵政省からのメールは、サンノゼで受けました。インターネット99の会場です。Y2Kがどう現れるか。21世紀のネットワーク社会はどう現れるか。その姿を見ることなく、電気通信事業法の父、高田さんは旅立たれました。これからのこと、もっとお話したかった。

インターネットの世界大会は5年前のプラハ以来です。あのころ、高田さんは通信政策局の次長でしたか、パリに派遣されてスパイのようなことをしていた私はプラハに潜り込めとの指令を受けたのです。

あのころ、マルチメディア・ブームでした。アメリカはNIIと競争政策を提唱し、ヨーロッパは国家的インフラ整備を前面に出していました。日本はそのミックス政策でしたね。プラハ会場には欧米の政府関係者の姿が目立ち、政策PRのセッションが急に開かれることになりました。私はあわてました。日本の政府関係者はボクだけか?世界大会で日本ハズシをやられるのを眺めることになるのか?

外国語をしゃべることと、努力と根性と通勤が何より嫌いな私ですが、その時は、ハジかかされる、という思いから、考える前に走ってました。受付のテーブルでメモをなぐりがきしました。「2010年に1兆ドルの市場を光ファイバーで達成することが国家目標であり、そのため競争環境を強力に整備する、と、日本政府代表が会場で言っている。」

そしてEUのバッジをつけたグループを探し、その中で一番エラそうな人をつかまえました。フランス人っぽい名前だったので、たどたどしいフランス語で言いました。「日本の政府からパリに派遣された者だ。パリを愛している。ヨーロッパ万歳。だからステージでこのメモを読み上げてくれ。」果たしてその人はEU代表のフランス人で、ニコニコしてメモを受け取り壇上に進み、きっちり読み上げてくれました。そんな話は東京には報告しなかったと思いますが。

あれからインターネットはネットワークを制覇し、各国が制御しようとした目論見は外れ、民間のビジネスとして定着してきました。だから今回はもう政府関係者の姿は少なく、参加者も落ちついた風情でした。時代が変わった。実感しました。

今も激動期、あのころも激動期。私が役所に入った84年ごろも激動期でした。データ通信課の新人からみれば、隣で電気通信事業法案を作っているチームのヘッドだった高田調査官は雲の上の存在でした。しかし、そのころの高田さんは今の私と同じ年頃ですね(※中村注:30代半ば)。その方が通信自由化の法案を仕切っていたのですね。

しかも、どうも実際に法案を書いているのは補佐や係長の方々で、その上司たる調査官は昼間から酔っぱらってるオッサンのように私には映りました。つい15年前のことですが、あのころは若い役人が大きな仕事をしていましたね。

法案が終わって政省令づくりの段階に来るとアメリカが門戸開放だの技術基準緩和だの勝手なことを言ってきましたが、交渉団が乗り込んできたとき、会議室のあっち側にアメリカが座って、こっち側に郵政省幹部や外務省代表が座って、おや、高田クンがいないぞ高田クンがいないと始まらないぞ、となりました。

私が地下の売店に探しに行くと、やはり高田さんは禁煙パイポを買っている。皆さん呼んでますよと言うと、「あーそーか」と思い出したようにつぶやいて、パイポを2本、こう、キバのように口から出して、「怖い?怖い?」と聞いてくる。このオッサン変なこと考えてるなと思って答えずにいたら案の定、そのまま会議室に入っていって、しばらく敵の交渉団をにらんでんの。効果ありませんでしたね、あのパイポ。

それからデータ通信課長として直属の上司と仰ぐこととなり、徹底的に勉強させられました。通信自由化後の法運用に当たり、実態を通じて制度を作っていった時期です。昼間から酔っぱらってるオッサンのくせに、私は政策の議論で勝ったためしがありません。

だからいつも宿題を抱えている。忙しかった。忙しかった。ところが夕方になると課長は「遊ぼう遊ぼう」と人を誘う。私はヒラなので逃げられず、そしていつものスナックでいつも課長は寝入るから、閉店後、テーブルとイスを片づけて、掃除機をかけて、タクシーで宿舎まで送る、毎日でした。

土日もなく働いてました。制度、政策、実態を作り上げている最中ですから、楽しかった。でもたまにサボって、ある平日の真っ昼間、日比谷サウナにしけこんでいたら、高田課長が入ってきた。サウナだから逃げられない。

「キミこんな所でナニしてんの」と見ればわかることを聞くので、課長こそ、と言い返すと、「オレは床屋から役所に戻る途中だぞ」との答えでした。床屋さん、逆方向じゃないスか。勝てない。この方には。でもここしばらくは官僚たたきがひどくて、今そんなことしてバレたら懲戒ものですかね。当時もそうだったんですかね。

その頃もまたアメリカは国際VANでガタガタ言ってきました。そのとき高田課長は敵の団長を自宅に呼んでメシ食わせて「気楽にやろうや」なんて話してましたけど、役所でこっそり「今回はこっちが勝つから、ヤツは政府をクビになる。仕事の世話してやらないといけないな」などと言って外資系企業に電話したりしてましたね。教科書にはない、新聞にも載らない、官僚の仕事のごくヒトコマが、そうやって積み重ねられていきました。

10年後、私が官房で規制緩和を担当しているとき、与党の委員会で役所がこてんぱんに叩かれる場がありました。何日もかかって準備した資料をお渡ししたのに、高田総務審議官は読みもせずに会議に臨み、案の定、通信やCATVの外資規制撤廃などの難しい議論を切り抜けてしまわれました。通信政策局政策課長、放送行政局総務課長、官房国際課長などの行政実績に裏打ちされた度胸と、生来の天才ぶりは、私には到底マネのできないものでした。

今をときめく孫さんが衛星ビジネスやりたいと言うので、高田さんに引きあわせたこともありましたね。孫さんにしてみれば、守旧派の権化たる高級官僚にガツンと言うつもりだったんでしょうが、高田さんが「ギョーカイ秩序を崩すよーなそーゆーことはもっと早くガーンとやってくれ」と言ったので、孫さんが目を白黒させてビックリしてた。おかしかった。
(※中村注:1996年、孫正義さんがマードックとテレ朝に出資したころのお話。)

最後にお仕えしたのは省庁再編の時です。いちど体を壊され、退院なさった後だったというのに、役所の組織をどうするかをめぐって連日お伺いし、ご心労をおかけ致しました。メディア政策を担当する2局をハードとソフトに分けるという高田案は、10年後の行政の姿を念頭に置いて、組織の姿を逆算するものであり、理想主義で政策主義の高田さんを知る者としては納得のいくものでした。実際の組織をどうするかという現実主義からみると突飛なプランであり、恐らく実現に至るにはまだ時間がかかるでしょう。
(※中村注:省庁再編当初の総務省は通信・放送は1局減って2局とされ、それを設計する話です。その後、菅義偉総務大臣の際に現在の3局に戻されました。)

しかし議論の価値はあったと信じます。個々の議論では、かなり乱暴なことも申し上げたような気もします。若い官僚が政策論を幹部に突き上げていく、ここしばらくの霞ヶ関で薄れている気風をいまいちど取り戻したい。ましてや人類にとって当面もっとも重要なメディアという分野の政策をどう編成するかの瀬戸際だ。のめり込んでいたので、そんな具合に熱くなっておりました。楽しかったです。楽しかったです。

しかしそれでもなお目を開かされたのは、高田さんがその案の中で、料金政策をソフトに位置づけたことです。通信料金はいわばインフラの提供価格ですから、電波行政や事業許可などのハード部門に位置づけるのが自然と思いこんでいたところ、高田さんはそうではないと言う。

「料金は提供者と利用者のインターフェースであり、利用の条件だ。これからはインフラのコストから料金を見るのではなく、利用者からみた望ましい料金というアプローチが重要だ。料金規制がなくなっても、行政の視点は利用者サイドに置くべきだ。」つまり2局は提供と利用という性格でもあるんですね。うーん、鋭い、この方には勝てない。

一段落ついて、あれこれ考えた結果、私が役所を出て渡米するとの話を申し上げ、私事でご迷惑をおかけしてしまいました。ただ考えてみれば、ことの発端は高田さんでした。95年2月、ブラッセルでの情報通信G7、パリから潜り込んだ私をつかまえて、高田さんはおっしゃった。「さっきCSKの大川会長とメシ食っていて、こんど東京でジュニアサミットをやろうという話になった。あした記者発表する。セットしてくれ。」

あれから4年たち、2回目のジュニアサミットをMITで実施しました。子供のためのセンターを作ることにもなりました。あの時の理念は着実に育っています。これからもそれを育てるため、私は努力を続けます。

「キミなんかが役所の外に出たって世間様の役には立たないよ。」とおっしゃいました。高田さん流でお引き留め頂きました。でも私がいよいよ決意すると、「じゃあキミが先に外に出て、地ならしして、それから1年後に真打ちのオレが出ていくということにするかな。」と高田さん流に支援して下さいました。

高田さんはその直後に官房長になられましたから、1年後に外に出られる可能性はないと思っておりましたが、まさかちょうど1年後にこの世界からおられなくなるとは、不覚にも、思い至りませんでした。

「もうキミたちの時代なんだから。」よくそうおっしゃいました。しかし言葉の裏腹に、先輩たちは手綱を緩めません。ボクたちの時代はまだ来ていませんでした。これは役所の話というより、民間も含めて、日本ぜんたいのことです。

それは先輩たちの仕切りが強いということではなく、ボクたちが時代をたぐりよせる努力を怠っていたということでしょう。先輩たちの路線で食い続けることに、甘えてきたということでしょう。いや、ボク「たち」という部分に既に甘えが表れます。「ボク」がサボっていたんだ。

どうもありがとうございました。がんばります。今は厳しい時代ですが、これまでも結局ずっと厳しい時代で、これからもずっとそうなんだろうと思います。自分で考えて歩いて行きますが、たまに、がんばれ、とか、何やってんだとか、声をかけて下さい。

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追記。料金政策を利用者行政に位置づけろ。総務省にはいま消費者行政課が2課置かれています。消費者行政が重みを増してきました。しかし当時、そうした重要性がほぼ認識されてはいませんでした。

同時に高田さんは、著作権行政にどう取り組むのかと省内で盛んに問題提起していました。コンテンツ行政が重要になるのは明白で、その提供と利用のインタフェースが著作権である。著作権政策はIT政策と一体化する。今は役所が分かれている(郵政省と文部省)が、今後そこにどう取り組むのかと。慧眼。IT政策と知財政策の融合は、今なお重いテーマです。

改めて、霞が関があれやこれや縮こまっています。そして電気通信事業法を巡っては、携帯料金値下げとかブロッキングだとか、改めて厄介な時期にあります。胸を張って行政ができるようになってもらいたい。

高田さんが病に倒れ亡くなったのは50歳を過ぎたあたり。ぼくはとうにその歳を経て、うんとシニアになりました。もうキミたちの時代なんだから。と語る世代です。ボクたちの時代は来たのか。キミたちの時代は来ているのか。
高田さん、どうごらんになっていますか?


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2019年8月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。