政治団体が主催する追悼式典
ここ数年、1923年の関東大震災で起きた朝鮮人虐殺をめぐる議論が白熱している。
朝鮮人虐殺自体を否定する極端な主張がなされたと思えば、虐殺の事実を強調する主張がなされ、後者については2014年に出版された『九月、東京の路上で』が高い評価を受けた。
更には小池都知事が2017年以降から朝鮮人犠牲者追悼式典に歴代知事が行っていた追悼文の送付を取り止め、左派から強い非難を浴びている。
朝日新聞は社説で追悼文を送付しなかった小池知事を「事実を軽視し、過去に学ぶ姿勢に欠ける振る舞いで、厳しい非難に値する。」と強い調子で非難している。
さて、この小池知事が追悼文の送付を取り止めた朝鮮人犠牲者追悼式典だが、その事実上の主催は日朝協会である。
この日朝協会のHPを見ると同会は日朝国交正常化を主張しており、そのための署名活動や各種集会・講演・勉強会を開催している。安倍政権にも批判的であり「朝鮮半島の動きに逆行する軍事力強化政策を強めています」と評している。(リンク参照)
これらの活動を見れば日朝協会が政治団体であることは明らかである。
今、話題の朝鮮人犠牲者追悼式典とは政治団体が主催した式典であることを留意しなくてはならない。
政治団体が主催する式典に行政の長が追悼文を送付しないことは「行政の中立」の観点から言えば誤りとは言えない。追悼文を送付することは日朝協会の政治活動に賛意を示したと解釈される可能性もあるからだ。
「舛添知事時代までは追悼文を送付していたではないか」という意見もあるだろうが、率直に言って歴代都知事が「行政の中立」に鈍感だったのである。
実際、この朝鮮人虐殺を巡る議論は過去を振り返るだけに留まらない。
上記の『九月、東京の路上で』でも僅かだが慰安婦問題に触れる箇所がある。「あとがき」で触れているのではない。本文で触れているのである。
慰安婦問題に触れることでどうして大規模災害における外国人迫害の議論が深まると言えるのだろうか。100年近く前のことをどうして冷静に振り返れないのだろうか。
関東大震災では確かに「悲劇」はあった。しかしその後の東京大空襲や大規模地震で都市部は度々「焼け野原」になるものの、外国人への大規模な殺傷事件は起きていない。
地震大国日本の歴史において関東大震災の朝鮮人虐殺は例外的な事例である。
もちろん例外とは言え重大な結果に他ならないから検証は必要である。
本稿では政治的喧噪から離れた地点で朝鮮人虐殺について検証してみたい。
自警団が結成された理由は
関東大震災の朝鮮人虐殺を実施した主体として「自警団」がよく挙げられる。
朝鮮人虐殺の再来を防止するためには何と言っても自警団の結成を阻止しなくてはならない。
そもそも何故、自警団が結成されたのだろうか。自警団の性格を素直に考えれば大規模災害により既存の治安組織(警察・軍隊)の崩壊が民衆に意識されたからである。
「朝鮮人が井戸に毒を流している。捕らえてしまえ」という主張の外には「何故、警察は朝鮮人を捕らえないのだ」という主張がある。
関東大震災では警察・軍隊が大打撃を受け、あろうことか警察・軍隊自身が流言飛語に感化され自警団の殺傷を黙認・一部加担する不祥事を起こしたが、これらの不祥事も警察・軍隊が打撃を受けた結果だ。実際、時間の経過により警察・軍隊の機能回復が果たされるとともに自警団の活動も抑制された。
関東大震災の悲劇の大前提には「警察・軍隊の機能不調」があることを忘れてはならない。
だから「悲劇」の再来を防ぐためにも被災地に機能万全な警察・軍隊(自衛隊)を展開することは積極的に肯定されるべきである
また、治安を意識するならば消防組織への正確な理解も求められる。
災害救助活動は第一義的には消防組織が担うが、彼(女)らに期待されている役割は文字どおり災害救助であり治安活動ではない。消防士は治安(制圧)訓練を行わない。もちろん消防士は卓越した身体能力があり一般人よりはるかに「強い」素手ならば大抵の犯罪者も消防士には敵わないだろう。
しかし、治安維持活動は単なる「強い」公務員が行うものではない。治安維持活動は行政活動であり、その活動には常に制約がある。行政による実力行使は「警察比例の原則」に基づくことが大前提であり、その規模は必要最小限度でなくてはならない。
鍛え抜かれた肉体をただ行使すれば良いのではない。治安維持には治安維持用の特別の訓練が必要であり、消防士はその訓練を受けていない。
時折、左派を中心に自衛隊を災害救助組織に改編すべきだという主張がなされるが、それは被災地での治安維持活動を無視した主張である。
緊急事態条項(権限)の議論が必要である。
関東大震災の朝鮮人虐殺の事例を挙げてヘイトスピーチ規制の必要性を訴えている者もいるが、自由社会と「事前規制」は実に相性が悪い。「自由を守る」とか「差別煽動と闘う」という名目で事前規制が正当化され、その規制が自由社会全体を覆うようになってしまっては本末転倒である。
筆者は自由社会を守るための事前規制に必ずしも反対するわけではないが、慎重であるべきだと考える。また、対策は事前規制に限るべきではない。事後規制も検討されるべきである。関東大震災では事後規制として戒厳令が敷かれた。戒厳令の宣告は国家による治安維持への強い意志表示であり、自警団の存在理由を否定するものである。
関東大震災の朝鮮人虐殺の事例から、国家に治安面における緊急事態権限を付与することは肯定されることはあっても否定されることはない。この場合、憲法を改正し緊急事態条項を新たに規定することも積極的に検討されよう。
しかし朝鮮人虐殺に強い関心を示す左派から緊急事態条項を肯定する声は聞かない。
彼(女)らの関心は事前規制であり、偏向的対策であるし事前規制に伴う自由社会への悪影響も考慮していない。
それは結局のところ朝鮮人虐殺という悲劇すら左派は政治利用しているということにならないか。どうだろうか。
(参考文献)
『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(加藤直樹 ころから 2014年)
『震災と治安秩序構想 大正デモクラシー期の『善導』主義をめぐって』(宮地忠彦 クレイン 2012年)
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員