『論語』の中には、言だけで行動が伴わないことを戒める章句が沢山あります。例えば、拙著『ビジネスに活かす「論語」』では、「君子は言に訥(とつ)にして、行(こう)に敏ならんと欲す・・・君子は言葉にするよりも素早く実行できるようにしたいと望む」(里仁第四の二十四)、あるいは「子貢(しこう)、君子を問う。子曰く、先ず其の言を行い、而(しか)して後にこれに従う」(為政第二の十三)といった孔子の言を御紹介しました。
全くの言行不一致を繰り返す人、一言で言えば「言うだけ番長…言葉ばかりで結果が伴わない人」の類では御話になりません。しかし現実は由々しきもので、言うだけ番長で終わる人、また見識(…知識を踏まえ善悪の判断ができるようになった状態)はあるにせよ胆識(…勇気ある実行力を伴った見識)を有するに至らない人が非常に多いように思います。
明治の知の巨人・森信三先生も言われるように、「キレイごとの好きな人は、とかく実践力に欠けやすい。けだし、実践とはキレイごとだけではすまさず、どこか野暮ったくて時には泥くさい処を免れぬもの」であります。実践力とは結局、「言ったことをきちっとやり遂げる」「出来ないことを言わない」といったものです。Don’t tell me.Just show me…もう言うのは分かりました。貴方の行動で見せて下さい--之は私が何時も使うフレーズですが、概して知行合一的に物事を処理して行ける人は極めて少ないように思います。
では、如何なるやり方で実践力を得て行けば良いのでしょうか。例えば、私が私淑するもう一人の明治の知の巨人・安岡正篤先生は、『照心語録』の中で次の通り述べておられます--われわれの生きた悟り、心に閃(ひら)めく本当の智慧、或いは力強い実践力、行動力というようなものは、決してだらだらと概念や論理で説明された長ったらしい文章などによって得られるものではない。体験と精神のこめられておる極めて要約された片言隻句によって悟るのであり、又それを把握することによって行動するのであります。
安岡先生の此の言は全くその通りで、そうした片言隻句を頻繁に念仏のように唱えることで自身の習慣のように身に付けて行くことが一番大事だと思います。書に出ているような難しい事柄でなくて、日頃から何事も言は行に結び付けねば無意味だとして日々の生活の中で事上磨錬(じじょうまれん)して行くのです。
習慣また親の教えとして自分自身が小さい時からずっと、「言ったことはやる」「約束は守る」といった形でやり続けていると、知らず知らずの内に実践力も得られてくるものです。もっと言えば、自分自身に義務化して行く位の覚悟で以て物事を処理する仕方を習慣として身に付けて行く、ということではないでしょうか。その人の実践力の有無あるいは程度とは、そういった習慣が身に付いているかどうかだと私は思っています。
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