74年前の1945年9月27日、昭和天皇はマッカーサー連合国軍最高司令官と初めて相見えた。その日、2人は日本人の通訳を除いて人払いをし、面談の内容を秘すことを約束したといわれているので、面会時の会話の公式記録はないとされる。
だが、マッカーサーが1964年4月5日に亡くなる3年前から綴り始めた「回想録」には、その会見で陛下の話された一説とマッカーサーの感想が述べられている。
さらに通訳がまとめた会見録を陛下にお届けした侍従長の藤田尚徳が自著の「侍従長の回顧録」にその会見録の一端を書いている。
また、外務省のQ&Aサイトに以下のように記載されている。(平仮名に直し、送り仮名と読点を加えている。以下、太字は筆者)
1945年(昭和20年)9月27日の昭和天皇とマッカーサー連合国軍最高司令官との最初の会見記録については、外務省記録「本邦における外国人謁見及び記帳関係雑件 米国人の部」のなかに含まれています。史料には、昭和天皇の発言として、
「此の戦争に付いては、自分としては極力之を避け度い考えでありましたが、戦争となるの結果を見ましたことは自分の最も遺憾とする所であります」、「私も日本国民も敗戦の事実を充分認識して居ることは申す迄もありません、今後は平和の基礎の上に新日本を建設する為、私としても出来る限り力を尽し度いと思ひます」
と記されています。他方、マッカーサーは、日本が更に抗戦を続けていれば日本全土が文字通り殲滅し何百万もの人民が犠牲になったであろうとして終戦へと導いた昭和天皇の決断を「御英断」と讃えるとともに、「陛下程日本を知り日本国民を知る者は他に御座いませぬ」と述べて、意見やアドバイスがあれば、いつでも、どのようなことでも伝えて欲しいと述べています。
このほか宮内庁も2002年秋に会見での陛下のご発言を公開した。筆者は未読だが、過去記事を調べる限り外務省のものと全く同内容であることが報じられているので、何れもこの会見に立ち会った通訳のまとめた会見録が出所と考えて差し支えなかろう。
マッカーサー回顧録の記述にある陛下の発言はこうだ。
私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした。
続けて、その後の占領政策に大きな影響を与えたとして人口に膾炙する陛下の印象を次のように述べている。
私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである。
ここで気づくのは、陛下のご発言に関する日本政府(外務省と宮内庁)の発表とマッカーサー回顧録の記述との間に甚だしい相違だ。前者には、後者にある「全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねる…」という肝心の発言が見当たらない。
では藤田尚徳は「侍従長の回顧録」にどう書いているだろうか。それにはこうある。
敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。
マッカーサー回顧録の記述とほぼ同じだ。藤田は会見録について、外務省が便箋5枚にまとめた会見の模様が届き、それを陛下のご覧に供した。通常の文書は、陛下がご覧になった後、藤田に戻されるが、この文書だけは陛下自らお手元に留められたようだ、と書いている。
この時、陛下の手元に残された会見録が、その後、外務省(と宮内庁)に保管され、58年目にして公開されたと見るべきだろう。が、そこで気になるのは、政府公開分と藤田(=マッカーサー)の記述の相違だ。そこでこの会見録をまとめた通訳の話になる。
通訳を務めたのは外務省参事官だった奥村勝蔵だ。9月27日にGHQを訪ねたのは、石渡荘太郎宮内大臣、藤田尚徳侍従長、筧素彦行幸主務官そして奥村ら6名。だが、マッカーサーは陛下と通訳の奥村だけを自室に招き入れたので、会見の35分間、石渡や藤田らは別室で待機した。
よって会見の中身を知る人物は3人、そして陛下と元帥は非公開を申し合わせた。このため02年の政府公開分は、奥村が内容を書き換えた、との話がある。02年8月に朝日新聞が公表した「松井明手記」によると、奥村が削除したと、松井が奥村自身から聞いたというのだ。
松井は寺崎英成(寺崎マリコの父)を挟んで陛下の通訳を奥村から引き継いだ外交官だから、それもあり得るかも知れない。
ところで、寺崎と奥村には深い因縁がある。それは1941年12月8日の開戦に関係がある。当時2人はワシントンの日本大使館で机を並べていた。
真珠湾の奇襲が行われた7日(現地時間)は日曜日で、前夜に転勤する寺崎の送別会があった大使館にはタイプを打てる者が奥村しかいなかった。ただ、奥村はタイピストではないので上手くはない。そこへ最後通牒たる宣戦布告を最後の1通に含む14通の暗号電文が次々入電して来た。
宣戦布告の最終1通を清書する前に、それを米国務長官コーデル・ハルに手渡すはずの時間になってしまった。野村大使は面会時間を1時45分に変更するよう依頼した。しかし、ハルは傍受していた暗号の解読によって、それが1時に渡されるはずの最後通牒と知っていた。
2時20分に野村大使が現れる直前、トルーマン大統領から電話が入ってハルは真珠湾奇襲を知った。だが、知らぬ顔で文書を受け取って一通り目を通し、「これほど恥知らずな偽りとこじつけだらけの文書を見たことがない」と野村大使に言い、顎でドアの方を指した。(「ハル回顧録」)
リメンバー・パールバーの原因を作ってしまったこの不運な出来事は決して奥村1人のせいでない。だが、その贖罪意識から4年後に陛下が述べた「責任発言」を会見録から削ることはあり得る。目的は戦犯問題の回避だ。だが、藤田が見た「責任発言」の一説をどう考えるか。
藤田の捏造とは考え難い。だが、陛下から外務省に下された後に奥村が削った、と考えれば辻褄が合う。なぜなら奥村は52年から55年までの3年間、外務省トップの事務次官だったからだ。
マッカーサー回顧録と藤田回顧録の天皇発言の記述が似ている理由についても、筆者はある考えを持っている。それはこの2つの回顧録が書かれた時期に関係がある。前者は1964年の発刊だが、後者の上梓は1961年で3年ほど早い。
何を言いたいかといえば、マッカーサーは藤田の回顧録を読んでいた可能性が強いということ。それゆえ両者の天皇発言内容やマッカーサーの感想が似通ったと考えるのは穿ち過ぎだろうか。しかしマッカーサーが死の直前であったからか「回顧録」には誤認が多い。参考にしても不思議はない。
以上、数多の論考があるこの問題、誰かすでに同じような論を書いているかも知れないが、筆者の考えをまとめた次第だ。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。