脅迫電話が大量にかかってくるような社会はやっぱ良くないよね
愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」の補助金問題でまた色々と平行線的な議論がまきおこっているようです。
私はフツーにリベラルな人間なので、手続き的問題とか関係者がどう行動するべきだったかとかそういう具体的な細部の問題を除けば、誰にとって不快だろうとなんだろうと出来る限りどんな表現でも保護されるべき、と考えている人間だし、あの展覧会がもうちょっと続いていれば行こうと思っていたし、中止になった時には、「右翼さんから見ても、相手を”殉教者”みたいにしちゃうこういう判断って最悪手だったんじゃないの」と思いましたし、バンバン脅迫電話したりする人がたくさんいたという話には心を痛めます。
特にこの「脅迫電話が沢山かかってきてしまう現状」自体に、なんとかしなくちゃいけない社会の問題が実際にそこにあることをヒシヒシと感じます。中止にしたこととか補助金がどうこうとかの話以前に、そこをなんとかしたい。
脅迫電話がかかってきまくる状態で、それでも表現の自由を絶対守るぞ!!!となると、それこそフランスのシャルリ・エブド事件みたいな話になってもおかしくないわけで、そこまでして表現の自由って大事なのかみたいなことを考え始めると永久に答がでないですよね。
だからこの問題をちゃんと解決したいなら、そもそも「脅迫電話かけてくる人数が減るような社会にしよう」というところがやっぱり大事なんじゃないかと。
で、じゃあそれをどうやったら解決できるかと考えた時に、単に「表現の自由を守れ」的な題目を唱えることだったり(もちろんキレイゴトをちゃんと言うということ自体大事なことなのでソレをやめるべきではないと思いますが)、単に「日本はもうダメだ!こいつらはカスだ!ほんと日本人て品性下劣なヤツらばっかりでため息でるよね!」みたいなことを言いまくって余計に相手側の怒りに火を注ぐことしか方法がない・・・というのも、少し工夫がなさすぎるんじゃないかと思います。
●そもそも表現の自由を無制限に認めることが社会の幸せに繋がるのか?が問われている。
そこで考えてみてほしいことがあるんですが、この「表現の不自由展問題」で、私たちリベラル人士が対峙している「議論の相手」がそもそものところで問題にしているのは、
「無制限な表現の自由を認めることが、はたして人々の幸せに繋がるんだろうか?」という問い
なんですよね。そして彼らは、それにある程度「NO(無制限の表現の自由は人々の幸せにならない)」だと考えている・・・という現状がある。そういう人に対して
「表現の自由を守れ!」って言っても相互コミュニケーションに全然ならない
・・・ですよね?
繰り返すように「キレイゴトだろうと言い続けることが大事」というのは重々承知ですが、相手側がなぜそういうことを言っているのか?を理解する努力をすれば、もう少し生産的なコミュニケーションになって、実際に「脅迫電話かけてくる人数」を減らしていけるような効果を持てるんじゃないかと思います。
個人的には、単に「お題目を唱える」のは必要だからいいとして、「ほんと日本人て下劣な国民になりさがってしまった!」みたいなことを言いまくること自体が、さらに脅迫電話をかける人数を増やしてるという因果関係は本当にあるんじゃないかという確かな実感がありますよ。
汝の敵を愛せよ。人は理解することでやっと理解されるのである。
「相手が言ってることに反論する」のでなく「相手側の懸念を解決する」ことを言うべき
では、どういう言論をしたら生産的になるかというと、(単に”表現の自由が守られていないから問題だ”と言うだけでなくさらに一歩踏み込んで)
「無制限の表現の自由を認めることが、あなたがたが生きている社会を幸せにする効果があるんですよ」
ということを説得していくしかないんですよ。しかも、できることなら
”相手が心を痛めているタイプ”の社会の問題を解決していくことにおいても、これを守ることは必要か、あるいは少なくとも邪魔にはならない
ということを説得できることが望ましい。これは”必ず”ということになると個人に対して封殺的すぎる流れになる可能性があるから”必ず”とはいえないが”より望ましい形”としては、ですね。
要するにお互いが「相手が言ってること」に反論してっても無意味で、そうじゃなくて
「相手がそれを主張する理由・懸念事項」の方を理解するようにして、「それはこちらの意見を飲んでも解決できますよ」ということを主張する
ことが、この「論戦」を単なる平行線的な罵り合いに終わらせないために重要なテクニックということになります。私は今度出す新刊「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」においてこれを「メタ正義感覚」と呼んでいます。
自分たちの理想がみんなを幸せにするんだと説得し、信頼を得なくては
要するに、今の時代の「意識高い系の仕切り方」自体に、社会運営上の色々な言語化しづらい深い課題に対して、ちゃんと的確にハンドルする慎重さと責任感を持ち得ていない(真偽はともかく少なくとも民衆の本能からそう判断されてしまっている)ので、「古い社会」の方が警戒して反発してきている・・・みたいな因果関係があるわけですよね。
民主主義国家というのは、いざ選挙に勝ったら明日には「自分たちが全権を握れる」制度なわけで、主張していく人間には、「明日自分たちが権力を握っても、ちゃんとその権力を適切に使える準備はできてるぜ」という責任感が求められる。
その「責任感」から逃げている分だけ、「知的な議論」というフォーマットに対して社会が「権力」を与えることを躊躇させてしまう。
要するに「政治的な表現の自由を制限したくなる社会」というのは、私たちリベラルな政治勢力にちゃんと現実を差配する能力があると思われていない、「信頼されていない」ことの裏返しみたいなところがあるわけです。
「信頼」させることができれば、フリーハンドを与えてもいいな、と「民衆の本能」が判断してくれる。そのことによって「お題目」にちゃんと地に足ついた実効性が生まれるようになるでしょう。
日本が最近排外主義的にならざるを得なくなってる「真因」の方から解決する
これは新刊からの図ですが、
こういうことって、あらゆるところにあるんですよね。
「古い社会」があった時に、古い社会が嫌いな人が、いきなり「お前らは古いからダメだ」みたいなことを言いに行っても問題は前に進みません。
そこで、「なぜ今の時代になってそれを大事にしているのかを理解しに行く」態度でいけば、「なるほど、こういう効果があってこうなってるんですね。それなら、こういう配慮をすればこの伝統を変えてもいいですよね?正直こちらがわとしてはこういう点が困るんです」という相互コミュニケーションが成立するというわけです。
私たちリベラルは、アベとかトランプとか欧州の極右勢力みたいな存在に対して、本当に完膚なきまでに完全な形で勝利しなくてはいけません。
「彼らが存在している理由」を代理解決することなしに、ゴリ押しのキャンペーンとかで選挙とかで1回2回勝ったりしても、「彼らが存在している理由」が解決されずに放置されていたままなら、彼らの側は必死の全力であらゆる財力とアジテーション能力を発揮して全体主義的な政治システムの実現を目指してくるでしょう。
その時こそが本当の「ファシズムの危機」です。
じゃあ、この図で言う、「隠されたダイヤ」とは一体なんなのか?
そろそろブログとしては長くなってきたので手短に述べますが、例えば前回の気候変動に関するグレタ・トゥーンベリさんの演説についてのブログで述べたような話でいうと、
「グリーン電源」に高価なものしかなければ途上国には導入できないので、高効率な石炭火力の研究をすることは人類全体でみて「エコ」になりえる。だからこそ日本人が高効率な石炭火力を研究する意味はある。
↑こういう発想を、松下幸之助が「水道哲学」と名付けています。
とか、
この「日本人が持っている水道哲学的なこだわり」は、グレタさん風の急進主義と徹底的に相性が悪いので、本来日本人が善意で真剣にやっていることまで、一緒くたに「how dare you!!」みたいなことを言われてしまいがちなすれ違いが現代世界では常にあります。それが結果として、ある種の排外主義的な気分に繋がってしまっている。
みたいなことが含まれるんですね。
特にこの「水道哲学と急進主義のギャップ」というのは、日本人は直感的にわかる人が多いけれど、欧米人はかなり賢いはずの人でも全然わかってない人がかなりいて、しかも「反論する」ためには非常に大きく精密な論理を展開しないとちゃんと反論できないために、いつも現代社会で無視されてしまいがちな構造になっている問題がそこにはある。
大事なのは、そういう「より深く大きな因果関係」を「言葉で語れる」ようにしていくことで、「自由な言葉を排除する風潮」が巻き起こることの「真因」から解決していくことが必要な時代なんですね。
「言葉で語れる範囲」が「真実のほんの一部」でしかない状態で、「みんな言葉で議論すべきだ」という風に焚きつけると、結果として実現する社会は「社会の本当の必要性にちゃんと実務的に寄り添ったものではなくなってしまう」ことになりますからね。
歴史問題の鏡映対称性と、日本人が排外主義的にならざるを得なくなる理由
特にキャラクター的に日本人が持っている性質の中には、現代の意識高い系の言葉によって「ちゃんと対象化できていない」ものがかなり含まれているために、日本人は排外主義的にならざるを得なくなっているという構造はどうしてもある。
脅迫電話をする人が沢山いたり、外人に対してヒドイこと言うヤツがいたり、オンナコドモに対して考えられないイジワルをする男がいたり、そういうニュースに接するたび、私はソノ犯人を責めることよりも、そこに溜まっている「無理」をどうやったら意識高い系の論理の延長でうまく社会の中に還流させることができるだろうか?ということを考えます。
20世紀には、「右の暴走」のファシズム的全体主義国家が起こした災禍よりも、さらに死亡者数でいえばより大きな災禍が「左の暴走」による虐殺や飢餓によってもたらされているわけで、「どっちか」だけを非難して排除するような意見は徹底的にバランスを欠いていますよね?
つまり「古い社会の抑圧のタガ」を引きちぎって自由を得たいのならば、それを排除して「自分たちの考え」が地平線の端まで本当に実行された時にも、ちゃんと人々の暮らしの安寧は保たれるだろうか・・・という責任について真剣に考える必要がある。
それが20世紀の歴史の教訓です。
右も左もそうなはずなんだけど、今は全部自分側の責任は無視して敵側の責任だけを追求するモードが左右両方で流行ってるから、社会の注意を「本当に実質的な解決に向かうための建設的コミュニケーション」に向かわせることができなくなってしまっているんですね。
この「歴史問題の鏡映対称性」を無視するような意見は、賢くなった21世紀の人間の警戒心を刺激してしまうのは当然ですよ。
糾弾する前に、自分の意見が本当に世界中で実行されても問題が起きないかどうかを検証する態度が、21世紀には求められているわけです。
最後に
「議論と言う名の罵り合い」の時代をおえて、「本当に問題を解決するための対話」の時代をはじめましょう。
そのための私の5年ぶりの新刊、
「みんなで豊かになる社会」はどうすれば実現するのか?
が、来年1月にディスカバー21社から出ます。長く時間をかけただけがあって、本当に自分の「すべて」を出し切れた本になったと思っています。
現在、noteで先行公開しており、無料部分だけでもかなり概要がつかめるようになっていますので、この記事に共感された方はその無料部分だけでもお読みいただければと思っています。
同時に、その話をさらに推し進めたところから、日韓関係をはじめとする東アジアの未来の平和はこの視点からしかありえない・・・と私は考えている提言については、以下をどうぞ。
それではまた、次の記事でお会いしましょう。
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倉本 圭造 経済思想家・経営コンサルタント
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