文化庁前の抗議行動を見に行く。
うん、凄まじい緊張感と熱量だった。しかし、もっと広がりを見せてほしかった。100人いないくらい?いや、もちろんデモは人数が問題ではない。ちゃんと声をあげたことは大事だ。それがこのように伝わっていく。マイクを握った方の訴えにはいちいち感動した。ただ、もっと、芸術クラスタに広がっているかと思ったのだが。
・・・与野党ともに、政治家って教養がないんだよね。その辺、ベンチャー社長クラスタと似ていて。だから、野党も攻め方が十分じゃなくて。反自民、反安倍に回収されてしまう。AKBとか乃木坂とか言っている場合じゃないんだよ、枝野代表。
個人的には、あいちトリエンナーレ関連で怖いのは「萎縮」と「自粛」であり、「いつの間にか傷ついている人」である。表現することについても、議論することについても、だ。
一昨日もあいちトリエンナーレの会場にお邪魔したのだけど、抗議のために展示の中心や内容変更が相次ぎ。傷ついたのは、アーティストと観客であることは確認しておきたい。きっと何度か行くだろうと思い、フリーパスを買ったのだが、当初予定していたうちの10組以上のアーティストが見れない芸術祭て。
ジェンダー平等など、打ち出していた当初の理念がかき消されてしまったことも。それを礼賛していたクラスタも黙っちゃったし。
津田大介氏の功罪、是非、率直に好き嫌い(・・・大昔、フジロック関連の音楽に政治を持ち込むな論争で、その点にふれたら彼に嫌われてしまったようだけど、率直に論者は好き嫌いはあるし、嫌われてナンボだと思うのだ)などが入り乱れているが、当初目指したことの一部は評価したい。
脅迫は言語道断だ。ヘイトはよくない。もっとも、例の展示に関して不愉快だと思った、傷ついたという意見については耳を傾けなくてはならないだろう。
結局、議論は広がっているようで、深まらない。ぶっちゃけ、多くの人にとっては、気になるけど、自分事だとは思わないし。論じてはいけないことになってしまっている。あいちトリエンナーレ=表現の不自由展みたいな誤解もあるようだし。
関連して、話は飛ぶようだけど、数年前の佐野研二郎騒動を思い出した。あのときも、外野も含め、美大には(・・・多摩美大だけでなくて、他大にも、だよ)電凸が相次ぎ。佐野研二郎以外の先生にも含めて、ね。
その時に、タマビの学園祭では、佐野研二郎の「葬式」というパフォーマンスが行われ。
率直に私は葬式ごっこはありえないと思う。佐野研二郎やそのスタッフの過失がもしあったとしても。
ただ、ある美大生から「私たちの想いを理解してくれ」という趣旨のメールと、公開してOKだとのことで、その様子を収めた映像が送りつけられてきた。
このエントリーにもまとめてある。映像にも飛べるようになっている。
多摩美術大学の佐野研二郎葬式ごっこ問題を考える(常見陽平) – Y!ニュース
見たけれど、やっぱり理解できなかったし、悪趣味だし、佐野研二郎の名誉を毀損していると思ったし、美大生なみから言うとセンスも悪かったし、これは電凸している人とやっていることは変わらないと思った、率直に。
ただ、「納得」はしないけれど、頂いたお手紙から彼ら彼女たちの「想い」は「理解」した。結局、デザイナーになって、売れても、変なことで足を引っ張られたり、傷ついたり。創作することや、プロのデザイナーを目指すことの意欲が削がれた、と。
美大の教職員からも「これでデザイナーを目指す中高生が減ったら残念だ」という声を聞いた、当時。いや、「受験生、減るかな」という切実な問題ももちろんあるのだけど、日本のアートとデザインの未来が、ね。
すべての表現は政治的にはなりうる。娘が「パプリカ」に夢中で。ただ、そこに妙なナショナリズムを感じて気持ち悪くなったり。いや、踊りも歌もマスターしちゃったんだけどね。
ただ、誰もが政治的メッセージを前面に押し出したものを作りたいかというとそういうわけでもなく。どうせ叩かれる、とつくりたい衝動にブレーキがかかったら残念だ。
何が言いたいかというと、「一部の人が騒いでる」という絵に見えてしまったわけで。そうなってしまう理由、広がらない理由にも向き合わないといけない。ポリティカルな論争でもあり。いつの間にか反自民、反安倍のムーブメントに見えてしまう。で、いつの間にか、普通の若い人のつくりたい衝動に蓋をしてしまっていないか、ジワジワと萎縮、自粛が広がっていないか、そんなことを懸念する今日このごろ。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2019年10月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。