2019年6月、ホルムズ海峡付近で日本船舶を含む2隻の石油タンカーが攻撃を受けると、原油相場は即座に反応し4%も上昇した。(参照:日経新聞)
しかし、日本国民の当事者意識は薄く、下記の世論調査結果が示す通り「民間船舶護衛のための海洋安全保障構想(有志連合)」への参加には否定的だった。
自衛隊を中東へ「派遣すべきだ=28.2%」、「派遣すべきではない=57.1%」
(共同通信社8月17・18日「全国電話世論調査」より引用)
誠に残念ながら、この無定見は日本国民の弱点である。
シーレーンの重要性が解らない日本人
四周を海に囲まれた我が国は、約80年前既に「資源は輸入に頼る」経済構造であった。国民もそれをよく認識しており、はるか彼方に設定した絶対国防圏のサイパンが陥落すると東条内閣は責任を問われ総辞職したほどである。
一方現代の日本では、要職にある政治家さえ、対日原油の約8割が通過するホルムズ海峡の重要性を理解できないのである。例えば
枝野代表:
ホルムズ海峡が封鎖されて石油がとまりましたという状況(略)今と同じような快適な生活が守られない(=石油が止まる)からといって集団的自衛権を行使するというのは、我々はとても容認できない
(第189回国会予算委員会第13号:2015年3月3日より抜粋。括弧内と太字は筆者)
つまり、
「ホルムズ海峡が封鎖されて石油が止まる=今の快適な生活が守られない」
という程度の理解なのである。
解らない原因
その原因は直接的には戦後教育にある。歴史も地理も経済も説明が不十分なために、多くの日本人にとってこの“命綱”が、まるで盲点かのように見えていないのだ。しかし教育にのみ理由を求めることは、事象の表面的な理解にすぎない。
つまり本質的には「自衛隊(≒日本軍)が日本の生存基盤を保護する重要不可欠な役割を担っている」という事実が「平和憲法9条が守る日本」という「虚構の物語」を謳う文脈上、極めて都合が悪かったからである。
蒙をひらく「海をひらく 知られざる掃海部隊」
そんな安全保障に暗い私達に一条の光を届けてくれるのが、この『海をひらく 知られざる掃海部隊 増補版』(桜林美佐・著、並木書房)である。掃海部隊を切り口に、「閉された言論空間」を切り裂き、不可視だった安全保障の本質を可視化しているのだ。
終戦直後、なぜ日本国民は飢えていたのか
従来、「戦争に負けたから」という事柄になんとなく全ての理由を求めて思考停止し、「ゆえに政府が悪い、日本軍が悪い」という物語に組み込んでしまっていた。
しかし変である。爆撃で灰燼に帰したのは都市部であり、農地ではない。農家には食物があり闇市で流通するなど、なんだか辻褄が合わない部分もあったが、目を瞑っていた。
実は、終戦直後日本人が飢えていた理由は、米軍による「対日飢餓作戦」が絶大な効果を発動していたからなのである。
昭和二十年三月二十七日から米軍は、関門海峡・広島湾を皮切りに、終戦までの五ケ月に一万千二百七十七個の機雷を敷設し、海上輸送路を遮断した。「対日飢餓作戦」と呼ばれたこの作戦を、今、日本で知る人は少ない。(P17「はじめに」より抜粋)
では、なぜ知られていないのか。
理由は、米軍による対日機雷敷設行為が国際条約に違反していたからである。(略)その頃、極東国際軍事裁判いわゆる「東京裁判」が行われ、日本の「国際法違反」が厳しく問われていたこともあり、GHQが必死で、この機雷による事故を秘匿したのは当然であろう。(P83-84)
日本人七百万人を餓死から救った掃海部隊
「対日飢餓作戦」があと一年続けば、当時の国民の一割、七百万人が餓死すると言われていたのだ。(P19「はじめに」より抜粋)
終戦直後、我が国周辺海域には未処分機雷が多数残存し、復興にはこれら機雷の除去と水路の啓開が必須だったが掃海部隊がこれにあたった。
つまり、戦争では三百万人以上の日本人が亡くなったが、実はその2倍以上に上る七百万人の命を、掃海部隊は機雷除去によって餓死の危機から救っていたのだ。算定根拠の確認は必要であろうが、膨大な人命を救ったことは紛れもない事実であろう。
朝鮮戦争と「機雷除去=掃海」という集団的自衛権の行使
1950年、複雑な経緯と事情を抱えながらも、とにかく日本の掃海部隊は戦場である朝鮮半島に赴く。
これから何が起こるのかもわからない。わかっているのは、これから軍艦旗も日章旗もない船で「戦場」に行こうとしていること(P133「指揮官の長い夜」)
それから65年後の2015年、国会で安倍総理は次のように答弁した。
ホルムズ海峡に(略)敷設された機雷を掃海することは、外形的にはいわば集団的自衛権の行使であるという判断が国際法上なされている(前掲議事録より)
安倍総理の言う「国際法の判断」が「いつなされたものか」など要確認事項はあるが、国連軍を支援するために朝鮮半島に行き、機雷除去という「行動」をとった日本は、要するに65年前から集団的自衛権を発動していたということではないだろうか。
遥かペルシャ湾へ!
1991年、ペルシャ湾へ海上自衛隊の掃海隊が派遣される。初の海外派遣である。この時の掃海部隊指揮官落合一佐は「沖縄県民斯ク戦ヘリ…」で有名な大田實中将の御子息だそうである。(参照:P263)
「軍艦旗を見たときに涙がでました」現地日本人の率直な言葉だった。(略)肩身の狭い思いをしてきたバーレーン駐在の人々にとって、掃海部隊は救世主のようだった。(P305)
著者:桜林 美佐 氏
同書によると、桜林氏はフリーアナウンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作した後、ジャーナリストになり国防問題を中心に取材・執筆している(著書多数)。桜林氏が取り組むのは、国防という重厚なテーマであり、展開する主張は骨太である。そのため「迫力ある論客」を想像してしまうのだが、映像で見る桜林氏の姿は「上品で知的」な雰囲気で、「アナウンサー出身」らしい聴きやすい話をされる方である。
SNSではもちろん多数のフォロワーを抱える人気者だが、分け隔てなく優しく交流していて、そのギャップが不思議なキャラクターである。
主張の内容は、取材と膨大な資料の調査研究に基づいていると思われ、確かに、その主張には論証を有利に展開するための歪曲や、人心を掴むための誇張が一切ない。
要するに桜林美佐氏は信頼できる人物だ。このような誠実で人気のあるジャーナリストが国防に関する事実を報道することは、我が国にとって有益である。なぜならば、生存のために必須な知見を奪われてきた我が国民に、広く安全保障関連の知識を届けてくれるからだ。また、ひどい扱いをうけながらも黙々と任務を果たしている自衛隊員に対し、国民として敬意を払い感謝の念を持つための導入になる。今後一層の活躍を期待したい。
まとめ
1952年に建立された掃海殉職者顕彰碑には七十九名が記され、碑文は吉田茂が揮毫したという。日韓関係に象徴されるように、現代日本では様々な戦後レジームが終了し、バイアスを排除した枠組みが再構築され始めている。人知れず日本の海路を維持してきた掃海部隊をはじめとする自衛隊は、今こそ国民に広く認識され、真の評価を得るべきときであろう。
その重要事実を読みやすい文章で記録している『海をひらく 知られざる掃海部隊』は日本国民必読の書であろう。
田村 和広 算数数学の個別指導塾「アルファ算数教室」主宰
1968年生まれ。1992年東京大学卒。証券会社勤務の後、上場企業広報部長、CFOを経て独立。