あなたは「体育会系」が嫌いですか?
暇な時間にはインターネットでこういう記事を延々読んでいるようなアナタは「体育会系の日本」が嫌いな人が多いかもしれません。
「上下関係」とか「密な人間関係」とか、「ウッス!アザッス!」的な感じ。高校や大学の部活や日本の飲食店アルバイトに満ち溢れる「この気分」がムシズが走るほど嫌い・・・という人もSNSには多いように思います。
ワタクシは中学時代ぐらいまで自覚的に「超サヨク的人間」だと思っていたので、
そもそも「敬語」っていうシステム自体が日本を忖度だらけのマトモな理屈が通らない社会にする悪癖なんだ!「尊敬する相手」かどうかはそれぞれの個人に判断が委ねられているべきだ!!
…みたいなことを本気で思っており、案の定たまたま入った部活が大嫌いでした。
しかし、高校で入ることになった文化部は、その分野で「全国大会に出た回数が(当時は)最多」みたいなところで、そこで色々体験するうちに、この「ウッスアザッス型」のコミュニケーションが実は非常に奥深い「組織運営上の知恵」のもとになりたっていることを痛感し、その後色々と考えを改めることになりました。
その音楽系の部活は、特に男は入部したとき楽譜読めないどころか最後まで読めないヤツもいるぐらいなのに、同地区のライバル校には「その学校の音楽科の生徒が全員集まって出てくる」ところとかもあって、「才能」とか「知識」とかそういうレベルのことで言ったらオハナシにならないレベルの差があるのに、「なんで毎年勝てるんだろう?」と思うじゃないですか。
それだけでなく、サヨク革命家を気取っていたワタシは、三年生になって実権を握れる中心人物になったら、ありとあらゆる「前時代的風習」みたいなものを廃止しまくっていこうとしたんですが、そしたらその後何年かでその部活自体が強烈に弱体化して、誰も知らない無名校になったりしたんですよね。
こういう「現象」には、体育会系嫌いの個人主義者も真剣に考えるべき課題が眠っていて、特に個人主義者の私たちが「日本社会のマジョリティ」との間で果てしない罵り合いになることなく「違いを活かした共存」を実現するために大事なヒントが隠されているように思います。
体育会系中間集団が持つ「機能」は、グローバル資本主義の絶対化に対する防波堤
私たち個人主義者から見ると、たまたま働いている会社とかバイト先とか、たまたま属している部活とかいった「中間集団」のアレコレとかほんと知らねーよ!俺はそういうのとは関係ない「絶対値的な個」を生きてるんだよ!!という話になってしまいがちなんですが。
単純化していうと、
・こういう「中間集団的なまとまり」を全部なくしてしまうと、トクするのは”知的な個人主義者”だけ
であり、
・「中間集団的まとまり」の中でお互いをトクベツな部品化することで、現代社会の中でトクベツだと思われない普通の人間のトクベツさを引き出す事が可能になる
ということなのだと私は考えています。だから、そういう風習を徹底的に破壊してしまいたい!と思っても強烈な反対にあったりする。
だからこそ、大事なのは「棲み分け」とか「違いを活かした連携」を考えることであるはずです。
体育会系的中間集団は日本の後進性の元凶か?
こういう「中間集団が強いこと」は知的な個人主義者から見ると「日本の後進性の象徴」みたいなところがあり、実際以下の過去記事↓で書いたように、
問題映画『ジョーカー』から考える「無敵の人」問題(※ネタバレなし)
日本は中小規模の会社の存在感が強くて、巨大資本が一気にコントロールする力が弱いために、ある種の新技術の導入とか効率化が遅れている・・・というような指摘はよくなされている。
しかし、もう一段「深い」見方をすると、この「共通システム」と「個別性」との関係というのは日本企業の強みと弱みを考えるときに重要な問題をかかえています。
私は学卒でマッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社に入ったのはいいものの、そこで展開される「方法論」と、いろんな意味で「日本的なるもの」とのギャップがあまりに大きい現状にだんだん心を病んでしまい、その後「日本という国の”現場を知る”旅」と称して肉体労働やら新興宗教団体への潜入やら色んなことをやった後、中小企業向けのコンサルティングや、「文通を通じて個人の人生の戦略を考える」みたいな仕事で日本の今を生きる「老若男女いろんな立場の人」と触れ合う仕事をしています。
その「日本社会の根底的なあり方」と「グローバルなビジネスの手法」とのギャップ・・・のコアにあるのが、さっき書いた私の高校の部活のような、「個人レベルで見ると大してトクベツでもない存在を、”全国レベルで戦えるようトクベツな存在”仕上げる仕組み」=「中間集団でまとめる価値」をどうやって維持するか・・・という問題なんですね。
たとえば企業への情報システムの導入を考えたときに、「個人主義者のインテリ」はできるだけ全世界共通の既存システムに自社を合わせるように持っていくべきで、カスタマイズは最小限にするべき…というのは「当たり前のこと」のように考えてしまいがちです。
しかし実際私のクライアント企業でそういう風にやろうとして、その会社の「個別性」の部分にある社員の独自工夫を常に吸い上げて生産方法をブラッシュアップし続けるプロセスとの間に強烈な齟齬が起きてしまい、結局失敗した・・・というような事がありました。
「個」レベルで見るとトクベツさがなにもない人間でも、「中間集団」レベルでキッチリ協力しあうことができれば、グローバルサプライチェーンの中でちゃんと最先端の価値を出し続けることができる。たとえ大卒が1割ぐらいしかいない企業でも、たとえ田舎にある会社でも、たとえ・・・という「普通に考えたら条件が悪い」領域でも最先端の戦いから脱落しないでイッチョマエにやっていける余地が生まれる。
そういう「切実な事情」が日本企業や日本の「古い組織体」の中にはあるわけだから、単にネットでよく見られる「ERPを過剰にカスタマイズしようとする日本企業とかほんと脳味噌腐ってるよね」みたいなこと言いまくってるだけじゃあ、相互に憎悪が募るだけで何一つポジティブなアクションは起こせないでしょう。
とはいえなんでもかんでもカスタマイズしたがる日本企業の性質に無駄が存在することも確かなんで、大事なのは「お互いの立場を理解しない罵り合い」を続けるのではなくて、「なるほど、こういうところは可変的に個別の会社の良さを活かせる仕組みにする必要がありますね。でもここのところは無駄で過剰なカスタマイズじゃないですか」という「よりわけ」をちゃんとやっていくことなのだ・・・と私は考えています。
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…ここ以降のこの記事は、最近中小企業レベルでの「人工知能のあたらしい取り組み」例が出てきていて、これは数年前のグローバルな流行としての「AI時代の到来!」と騒がれていた時期とは質的に違うものになりつつある・・・・という話をします。
そういう流れの中で「マイルドヤンキー的体育会文化の現場」と「最先端技術」の違いを活かしあった関係が可能となり、「資本が現場を完全になぎ倒す」型のグローバルな流行とは違う形で、あたらしい希望を生み出すでしょう。
そういう流れの中で、「フェミニズムとか人権派とかの意識高い系の文化」と「日本社会の古層」との新しい協力関係も可能になるはずです。
そういう趣旨の「後半」が続きますが、アゴラの文字数限界が来ているので続きは明日掲載します。
欧米社会の文化の「隠れた独善性」を中和し、しかし彼らの文化の美点を否定してしまうことなく非欧米文化の土着性の中にしっかり基礎づけること。そういうムーブメントが今必要とされているんですね。
そのための私の5年ぶりの新刊、
「みんなで豊かになる社会」はどうすれば実現するのか?
が、来年1月にディスカバー21社から出ます。長く時間をかけただけがあって、本当に自分の「すべて」を出し切れた本になったと思っています。
現在、noteで先行公開↓しており、無料部分だけでもかなり概要がつかめるようになっていますので、この記事に共感された方はその無料部分だけでもお読みいただければと思っています。
同時に、その話をさらに推し進めたところから、日韓関係をはじめとする東アジアの未来の平和はこの視点からしかありえない・・・と私は考えている提言については、以下をどうぞ。日本語できる韓国人や中国人へのメッセージもあります。
それではまた、次の記事でお会いしましょう。
倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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